悪魔が悪魔でなくなった20年、市場という新たな悪魔の登場 『プラダを着た悪魔2』【小説家・榎本憲男の炉前散語】
ついに抜かれたミランダの“傲慢”という伝家の宝刀
ハンナ・アーレントという哲学者は、人間の営みを、労働(labor)、制作(work)、そして活動(action)に分けています。わかりやすくするために、ここも強引に映画業界に移し替えましょう。「労働」は映画館などでのもぎりやポップコーンの販売や館内清掃(生きるための賃金労働)、「制作」は文字通り制作です(人工物の制作)、「活動」は映画専門雑誌などでの批評活動(言葉と行為によって互いに関わり合う政治的営み)に当ります。アーレントはこの中で最も人間的な営みを「活動」だと述べたのです。「活動」を通してのみ、人間は、公共に接続したひとりの人格として現れることができる、と。
このような主張を鑑みれば、『プラダを着た悪魔2』でもっとも人間らしいのはミランダになるでしょう。ミランダがブランドの幹部となったエミリーに向けて言い放った「あなたは先駆者じゃないわ(You’re not a visionary.)」と「あなたは売り子よ(You’re a vendor.)」という台詞は、「活動」だけが「自分が誰であるかを示し、それぞれ唯一の人格的なアイデンティティを積極的に明らかにする」営為だというアーレントの主張と合致していると思います。
しかし、「あなたは売り子(字幕では「小売業者」と訳されている)」はかなり問題含みの発言です。「よくこんな台詞を書いたもんだ」と僕は驚嘆し、呆れもしました。また、劇場のもぎりからキャリアをスタートした僕としては、この台詞にはかなり抵抗を覚えます。実際、ハンナ・アーレントの主張はもともと奴隷制をベースにしたギリシアの民主制を理想としているところがあり、時折そこが批判の的となったりもするのですが……。
アンディの“欲しいもの”問題を、どう解釈するか
それでは、この作品の問題点を最後にふたつ整理したいと思います。まず、アンディはどのようにミランダと「ランウェイ」を市場の脅威から救ったのか、です。このくだりを見て僕は「うーむ、やはりそうか」と思いました。正直言って、アンディの策は僕にとってあまり痛快ではありませんでした。なぜかというと、市場の力に対して市場の力で対抗するものだったからです。ただ、これは『プラダを着た悪魔2』になって、アンディが戦う敵があまりにも巨大になってしまったからでしょう。主流派経済学者はよくTINAという言葉をつかって市場主義を擁護します。「市場に替わるものはない(There is no alternative to market)」という意味です。市場はあまりにも強い。僕は映画批評家でなく、ストーリーライターの端くれでもあるので、自分ならどういう手を使うだろうかと考えてみましたが、いまのところ妙案を思いつけずにいます。
最後はやはり、アンディの“欲しいもの”がどうなったかを語ってこのコラムを終えましょう。なにはともあれ、彼女の活躍でミランダは編集長の地位に留まり、「ランウェイ」はサバイブします。ミランダ、ナイジェル、アンディがそれぞれの部屋で働く様子をビルの外から窓越しに狙ったワイドショットで映画は閉じられます。つまりアンディがこのままランウェイにとどまったという印象を残して終わるわけです。
では、前作で、自分にふさわしいのは本格的なジャーナリズムの現場だと感じて「ランウェイ」を去った彼女の気持ちはどうなったのでしょうか。ここでふたたび“欲しいもの”問題が浮上します。この結末についてはふたつのジャッジがあるでしょう。ひとつは巧妙に“欲しいもの”のすり替えが行われたということ。もうひとつは、物語を通じてアンディの心に変化が生じ「ランウェイ」こそが自分のホームベースだと考えるに至ったということです。おそらく、後者として解釈できた人は満足度が高いでしょう。ただ、僕がシナリオのチームに参加していたなら、やはりアンディはもういちど「ランウェイ」を去るべきだと意見しただろうなあ、と余計な妄想を膨らませてしまいました。
文/榎本 憲男
1959年生まれ、和歌山県出身。小説家、映画監督、脚本家、元銀座テアトル西友・テアトル新宿支配人。2011年に小説家、映画監督としてデビュー。近著には、「アガラ」(朝日新聞出版)、「サイケデリック・マウンテン」(早川書房)、「エアー3.0」(小学館)などがある。「エアー2.0」では、第18回大藪春彦賞の候補に選ばれた。映画『カメラを止めるな!』(17)では、シナリオ指導として作品に携わっている。

小説家・榎本憲男の炉前散語
