かりそめの“欲しいもの”から本当に“欲しいもの”への見事なアーク『プラダを着た悪魔』【小説家・榎本憲男の炉前散語】
小説家で、映画監督の榎本憲男。銀座テアトル西友(のちに銀座テアトルシネマ)や、テアトル新宿の支配人など、映画館勤務からキャリアをスタートさせた榎本が、ストーリーを軸に、旧作から新作まで映画について様々な角度から読者に問いかけていく「小説家・榎本憲男の炉前散語」。第14回は、主要キャスト4名が20年ぶりに続投することで話題となり、すでに興収30億円も突破しているデヴィッド・フランケル監督の『プラダを着た悪魔2』(公開中)。その公開を受けて、いまなお幅広い世代に愛され続けている同監督による前作、『プラダを着た悪魔』(06)に改めてフォーカス。主人公の“欲しいもの”を紐解きながら、オーソドックスなようでオリジナリティも兼ね備える、その作品の魅力に迫ります。
大枠としてはオーソドックスな物語構造
主人公が“欲しいもの”(want/need)に向かって突き進むが、その道程は障害物だらけ、それでも艱難辛苦を乗り越え、これはどうあがいても勝てそうにないという苦境も乗り越えて、最後には“欲しいもの”に到達する。これが物語の原型です。こう言うと、そんな単純な話ばかりじゃないだろう、という反論が聞こえてきそうです。現代的な物語はもうすこし複雑になっているものが多いのではないかと感じる人もいるでしょう。その通りです。そして、その原因のほとんどが、構造ではなく、主人公の心の複雑さにあることを語りたいのです。私たちの生きている社会が複雑になることによって、主人公の“欲しいもの”も複雑化する。その例のひとつとして『プラダを着た悪魔』を見ていきたいと思います。ほとんどなにも考えないで気楽に楽しめそうな作品に見え、実際に肩肘張らずに楽しむこともできるのですが、実はこの作品の主人公の内面はなかなか屈折しています。
ストーリーの大枠とその構造を話しておきましょう。ファッションについて知識も興味もない、ジャーナリスト志望のアンディ(アン・ハサウェイ)は、腰かけ程度の気楽な気持ちで、ファッション界のアイコンとも言える「ランウェイ」誌の編集部に採用されたまではよかったが、アシスタントとして付いたのは悪魔のようなミランダ(メリル・ストリープ)編集長、彼女の下で、徹底的にしごかれながらも徐々に仕事に意義を見いだしていくが、結局は自分が本来求めていたジャーナリズムの世界へと歩み出そうとする(――と無理矢理一行にまとめてしまいましたが、ストーリー全体をこのように一行もしくは三行くらいに圧縮することを、ログラインと呼びます)。因みに、『プラダを着た悪魔』にわずかに先行するタイミングで、とんでもなくわがままな女上司に翻弄されてヒロインが七転八倒という同じモチーフの短編小説の傑作が日本で発表されています。森絵都さんの短編小説「器を探して」(「風に舞いあがるビニールシート」に収録)がそれです。面白いので参考までに。
さて、このように最初は気楽に構えていたが、徐々に本気になって……という物語の構造はよくありますね。たとえば、『シコふんじゃった。』(92、周防正行監督)。主人公の山本秋平(本木雅弘)は卒業のための単位が足りず、それを埋め合わせるために相撲部に入部して、最初は適当にやっているわけですが、そのうち本気になってしまう。また、『評決』(82、シドニー・ルメット監督)の主人公フランク・ギャルヴィン(ポール・ニューマン)は、お世辞にも志が高いとは言い難い、三流弁護士で、知人から回してもらった仕事で小金を稼ごうと目論むのですが、事件の背後にある理不尽さに気づくにつれて、示談を蹴って徹底的に争おうとします。また、『フル・モンティ』(97、ピーター・カッタネオ監督)では、鉄工所が閉鎖されてしょぼくれている男たちが、自分たちがふたたび輝くにはストリップしかないと考え(いや、普通はそんなこと考えないでしょ、ということを考えるのがこの映画の魅力なんです)、それでも最初は、いやいやさすがにこれは無理でしょ、と躊躇いつつも、徐々に本気になって、最後にはスッポンポン(フル・モンティ)になって喝采を浴びる、というものです。と、いくつか例を挙げたのは、『プラダを着た悪魔』は、かなりオーソドックスな枠組みを使っているということを示したかったからです。
1959年生まれ、和歌山県出身。小説家、映画監督、脚本家、元銀座テアトル西友・テアトル新宿支配人。2011年に小説家、映画監督としてデビュー。近著には、「アガラ」(朝日新聞出版)、「サイケデリック・マウンテン」(早川書房)、「エアー3.0」(小学館)などがある。「エアー2.0」では、第18回大藪春彦賞の候補に選ばれた。映画『カメラを止めるな!』(17)では、シナリオ指導として作品に携わっている。

小説家・榎本憲男の炉前散語
