ルール不在の映画『シラート』が仕掛ける、サスペンスへの“転調”というサプライズ【小説家・榎本憲男の炉前散語】
『ファイナル・ディスティネーション』との共通項
逆の例を示しましょう。健全だと思われている社会や家庭から離脱し、砂漠を放浪することが主人公の真に求めているものだ、とじっくり欲望を深めていった作品があります。『ノマドランド』(20、クロエ・ジャオ監督)は原作の影響もあって、失職と夫の病死によって社会に居場所を失い、砂漠に放擲されてノマドになったというニュアンスで紹介されがちですが、映画だけをじっと見ていると、ノマド的ライフスタイルにこそ彼女の求めているものがあるのだと、わかってきます。ここには確かに欲望の深化があるのです。
これに対して、『シラート』は登場人物たちの体験を通して、観客の中にある“感情”を徐々に炙り出していく。
主人公ルイスとレイバーたちは、軍の隊列からコースアウトして砂漠へ出る。だが、そこには過酷な運命が待ち受けていた。これはよくある構造です。これを応用すると、旅の途中で悪天候に見舞われ道に迷った一行は、人里離れた屋敷に避難するのだが、そこにはシリアルキラーがいて、というようなスラッシャーホラーに変わります。
そして、北村紗衣さんが紹介していた『ファイナル・ディスティネーション』(00)では、登場人物たちを追いつめるのは殺人鬼などのキャラクターではなく、「運命」です。いったん、死の運命から逃れたつもりが、「運命」はいつまでも追いかけてくるという恐怖。なるほど、似ています。『シラート』もまた、軍の管轄を逃れて自由に砂漠を旅しているつもりが、中盤を過ぎたあたりから、なんの前触れもなく死に襲われ、ひとりまたひとりと死んでいく。観客は驚きます。なぜなら、観客はこの作品をスラッシャーホラーのつもりで見ていないからです。コースアウトしてしばらくは、平凡な中年男ルイスが異物として、レイバーらと交わりながらも、金や食料をシェアし、狩猟採集社会のバンド(移動する小集団)の中に溶け込んでいくさまが描かれていたのに、いったいなぜ突然に?と呆気にとられてしまうのです。
古典的スラッシャーホラーとは一線を画す、無秩序な〈死〉
では、『シラート』はスラッシャーホラーなのかというと、そうだとも断言しがたい。なぜなら、このジャンルではひとり、またひとりと死んでいく、その死の順番はキャラクターの「属性」や「倫理観」によって決まっているものなのです。前半で死ぬのは、性に奔放な者、ふしだらな者、傲慢体育会系、トラブルメーカー、お調子者で、中盤では知的なオタク、一見普通の友人、やや内向的な人物が殺され、そして、最後まで生き残るのは、純潔な処女か倫理観の強い者という具合に。
つまり、古典的なスラッシャーには、死者がキャラクターの属性や倫理によって選別されているように見える作品が多い。『ファイナル・ディスティネーション』はその道徳性を薄め、最初の大事故で本来死ぬはずだった順番を〈死〉が取り戻していくことで斬新さを獲得しているのですが……。
しかし、『シラート』の“死の順番”の崩し方は大胆で、『ファイナル・ディスティネーション』の比ではありません。最初の死者に選ばれたのは、まだあどけない少年のエステバンです。それも、なんの前触れもなく(いや、振り返るとないわけでもないかな)、車ごと崖から転落しての突然の死です。主人公がレイバーらと徐々にコミュニケーションが取れてきて、物語にすこし潤いや和みが現れてきた矢先のことなので、本当に驚きます。いや、『シラート』にはそもそも順番を決める規則が存在しないのです。そう考えるとさらに怖くなります。
そして、残された者らは、エステバンを弔うかのように、キャラバンのトラックに積んであったサウンドシステムを砂漠に並べて、エレクトロニカを爆音で流して踊るのですが、その最中、高揚感が高まったところで、突然、女が爆死する。あわてて駆けつけた男もまた爆発とともに吹っ飛ぶ。気がつくと、あたりは地雷だらけ、という具合です。
https://tvtropes.org/pmwiki/pmwiki.php/Main/SortingAlgorithmOfMortality
■榎本憲男 プロフィール
1959年生まれ、和歌山県出身。小説家、映画監督、脚本家、元銀座テアトル西友・テアトル新宿支配人。2011年に小説家、映画監督としてデビュー。近著には、「アガラ」(朝日新聞出版)、「サイケデリック・マウンテン」(早川書房)、「エアー3.0」(小学館)などがある。「エアー2.0」では、第18回大藪春彦賞の候補に選ばれた。映画『カメラを止めるな!』(17)では、シナリオ指導として作品に携わっている。

小説家・榎本憲男の炉前散語
