「SFという包装紙にくるまれた“ザッツ・是枝ワールド”」笠井信輔アナが分析する『箱の中の羊』とSFヒューマノイド映画の系譜
人が人を捨て、また捨てられる物語にこだわってきた是枝監督
『誰も知らない』(04)、そして『万引き家族』(18)。カンヌで高い評価を得たこの二つの作品は、捨てられた子どもたちのその後を描いた物語だ。さらに、『ベイビー・ブローカー』(22)は、まさに捨てられた子を、さらに“捨てに行く”話だ。
人が人を捨て、また捨てられる物語にこだわってきた監督である。
ヒューマノイドが誕生すれば、それは輝かしい技術の発展であると同時に、ヒューマノイドが捨てられるという社会問題へとつながっていく。是枝監督は、そこを見通している。
ただ、ここは、25年前に作られたスティーヴン・スピルバーグ監督の『A.I.』で強烈に描かれていた。当時、スタンリー・キューブリックが構想していた作品にしては甘すぎる、などの批判も少なくなかったが、今観れば、未来を相当に予見した作品であった。
血のつながった子どもが戻ってくれば、その間、心の穴を埋めてくれていた“生きている人形”であるヒューマノイドは、いらなくなる。『A.I.』は、ストレートにそれを表現していた。そして、本作の中にも、子どもが生まれたために捨てられたヒューマノイドの少女が出てくる。
では、ヒューマノイドは、どのような気持ちでいるのか。
2作のポイントは、ここにもある。
「人間にとって“生きた人形”が本当に必要なのか」
『A.I.』でハーレイ・ジョエル・オスメントが演じたデイビッドは、ピノキオのように「人間になりたい」と願う“心”を持った少年型ロボットであった。
しかし、人工知能が心を持つようになるのか。
是枝監督は、この点について、自作『空気人形』(09)で一つの答えを提示している。
それは、生きている人形が心を持つことは、とても切ないことである、ということだ。
そして、「私は誰かの代わりでいい」と、空気人形は結論づける。この考え方が、スピルバーグ監督の『A.I.』と大きく違うところである。
「ヒューマノイド・翔」は高度なAIではあるが、自分が人間になりたいなどという非科学的なことは思わない。自分は「人間の翔の代用品」であると理解しているのだ。
ここが、デイビッドよりも現実的であり、切なく、怖いところでもある。
まさに、『箱の中の羊』だ。
人間そっくりの躯体という「箱」を持つヒューマノイドではあるが、その外からは見えない本当の中身、すなわち「羊」は、自分たちが想像していた温かな存在とは違う。契約に基づいて作られた学習ロボットであるという現実が突きつけられる。
『空気人形』では、ダッチワイフを愛でていた板尾創路が、「元の空気人形に戻ってくれないか」と懇願するシーンがある。
人間にとって“生きた人形”が本当に必要なのか、という是枝監督の思いがにじんでいるシーンだ。
そうしてみると、『箱の中の羊』は、SF初挑戦という捉え方ではなく、作られるべくして作られた作品といえる。捨てられた子どもを描いてきた是枝監督の創作の柱は、“疑似家族”であるからだ。
『誰も知らない』『万引き家族』『ベイビー・ブローカー』『そして父になる』、さらに『海街diary』(15)も、異母姉妹が本当の家族になる話だった。『歩いても 歩いても』(08)の家族にも、連れ子が一人いる。
『A.I.』が同じような題材なのに、この家族の形態を深掘りしないのは、日本に比べて、アメリカでは養子縁組が圧倒的に多く、血のつながりのない家族の在り方が一般化しているからだろう。
血がつながっていない家族のつながりを描き続ける中で、そっくりだが偽物である「ヒューマノイド・翔」を受け入れようとする疑似家族の物語は、まさに是枝作品のど真ん中なのだ。
「人間になりたい」「母の愛を受けたい」と願い続けるロボット・デイビッドと、「自分は翔の代用品である」と理解しているヒューマノイド・翔のたどる道は、おのずと異なる。
『箱の中の羊』はその着地が分かりにくいという感想も見聞きする。
私は、人間の両親と決別し、森の中に残るヒューマノイドの子どもたちの姿を観て、なぜか『機動戦士ガンダムIII めぐりあい宇宙編』(82)のニュータイプの子どもたちを想起した。
人間そっくりのヒューマノイドを作るということは、新しい人類を作ることになっていくのではないか、と感じたのだ。自分たちは人間とは違う“存在”であるという自我の目覚め。そして、小さな躯体が起こす小さな反乱が、あのラストなのではないだろうか。
自分たちの世界を作る…。そして、生きていく。捨てられるのではなく、自ら離れていく。
これは、人間とロボット=ヒューマノイドがお互いを理解し合うというよりも、両者の真の共存は難しく、別の社会を築くことになる、というぎりぎりの結末に思えた。
「ヒューマノイドのたちの自我の目覚めを描いた作品」
人間とロボットの関係を描いたSF映画はたくさんある。そこで、それらを未来に向かって時系列で並べて直してみる。
『箱の中の羊』はその端緒、ヒューマノイドたちの自我の目覚めを描く。
『A.I.』が描くのは、自我に目覚めたロボットたちと人間との悲しき対立だ。
そして、『ブレードランナー』(82)や『ターミネーター』(84)で、ヒューマノイドたちは蜂起し、対人間戦争を起こすのだ。これらの作品は地続きであると考えられる。
そして、その先の物語が「鉄腕アトム」なのだ。人間とロボットが平等に共生できる平和な世界を目指し、アトムは闘い続ける。
手塚治虫が70年以上前に生み出したアトムも、『A.I.』や『箱の中の羊』と同じく、死んだ子どもの代わりとして作られたロボットである。そして、もっとも古い「鉄腕アトム」が2つの作品の先の世界を描いている。そう考えたとき、映画というものを点で観ず、線で観ていくことの面白さに気づくのである。
本作を観て、未来になればなるほど、“疑似家族”は現実的なものになると感じた。
本作の未成年のヒューマノイドたちによる小さな独立運動、小さな革命を観ながら、このまま人間が身勝手なままでは、技術や科学だけが進んでも、明るい未来はないように思える。
皆が、綾瀬はるかと大悟が演じた親のように、気づきを得られればよいのだが…。
文/笠井信輔(フリーアナウンサー)
