「SFという包装紙にくるまれた“ザッツ・是枝ワールド”」笠井信輔アナが分析する『箱の中の羊』とSFヒューマノイド映画の系譜
カンヌ国際映画祭コンペティション部門に出品され、5月29日より公開中の是枝裕和監督最新作『箱の中の羊』。本作は、近い未来の日本を舞台に、息子を亡くした喪失感を抱えた夫妻がヒューマノイドの子どもを息子として迎え入れることによって始まる家族の物語を丁寧に描いている。
年間130本以上の映画を鑑賞するフリーアナウンサーの笠井信輔は、本作を鑑賞後、想像以上に激しく心を動かされたという。本記事では、そんな無類の映画ファンである笠井信輔による、ネタバレありの考察レビューをお届け。是枝監督が創った“遠くはない未来”を、これまでの是枝監督作品や有名SF映画と共にひも解いていく。
※以降、『箱の中の羊』のネタバレ(ストーリーの核心に触れる記述)に該当する要素を含みます。未見の方はご注意ください。
「これは深い作品になるんだろうな」と想像していた
是枝裕和監督がSFに挑む。
もちろん、普通のSFは創らないはずだと思っていた。しかし、幼い息子「翔(かける)」を失った夫婦のもとに、AIのヒューマノイドがやってくるという設定は、往年の映画ファンならば、スティーヴン・スピルバーグ監督作、大人気だったハーレイ・ジョエル・オスメント主演の『A.I.』(01)と同じだと気づくだろう。
当時、『A.I.』を劇場で観ていた私もそうだった。あれから25年がたち、是枝監督は、すでに描かれたこの構図をどうしようとしているのか。大変興味が湧いた。
その結果は…。SFという包装紙にくるまれた“ザッツ・是枝ワールド”であった。
人間のために提供された人型ロボットが人間に虐待されるという、人間の身勝手さがもたらす残酷な未来を描く点で、本作には『A.I.』に通じるところがある。
江戸時代の身分社会が、いや、もっと前の平安時代の貴族社会がそうであったように、人間には、自分の地位を保つために、自分よりも低い立場の人を作り出してきた歴史がある。
今は「マウントを取る」という言葉によって、それが日常の中で表面化しているが、まさにAIロボット時代になると、ヒューマノイドという人間そっくりの存在が出現することになり、人間には「自分たちにそっくりな彼らは、人間より程度の低い存在なんだ」という防衛本能が働くのだろう。
人間は、ヒューマノイドが自分たちにとって都合のよいときには愛し、かわいがり、人間と同等に扱う。しかし、都合が悪くなれば、モノとして扱う。
劇中に、大悟演じる健介が、
「ペットじゃないんだから」
と口にする何気ないシーンがあるが、それこそが伏線であり、おそらくヒューマノイドは、将来的に「人間の姿をしたペット」のような扱いになっていくことを、是枝監督は示唆している。極論すれば、ヒューマノイドの誕生は奴隷制の復活を意味し、『A.I.』では、すでにそういう時代に突入していた。
先日、中国で、人間のランナーと人型ロボットが同じコースを走るハーフマラソン大会が開催された。いかにも「ロボット!」というものから、まるで人間のような巧みな走りを見せるものまで、たくさんのロボットが参加していた。
優勝したのは人型ロボットだ。人間の世界記録を7分近く上回る速さで約21kmを走り切る姿に驚いた。しかも、前年の同じ大会では、ロボットは人間より1時間半ほど遅かったのだ。わずか1年で目覚ましい進化を遂げたのである。
しかし、そのニュースでは、
「スタート直後に転んでしまうロボットもいて…」
といったコメントとともに、転倒するロボットが次々と映し出されていた。
ここで視聴者も私も安心する。
「足が速いだけだし、まだまだだな」と…。
ロボットに対する見下しやマウントは、すでに始まっているのだ。
将来的には、人間と見分けのつかないヒューマノイドが誕生するのだろう。その存在に驚きや称賛、愛着が生まれるのは当然だ。
しかし、技術の進化への「賛辞」とともに、「恐怖」も生まれてくる。
それをホラーとして提示したのが、矢口史靖監督の『ドールハウス』(25)であった。
亡くなった子どもの代わりに人形をかわいがるようになったら、その人形が動き始めた!そうなると、もう恐怖しかない。
ヒューマノイドは、まさに“生きている人形”
そう、ヒューマノイドは、まさに“生きている人形”なのだ。
そのことを是枝監督は、ホラーではなく、愛と家族の物語として巧みに描いたといえる。
そうしたなかで、『箱の中の羊』と『A.I.』の大きな違いは、ロボット=ヒューマノイドを受け入れる両親の視点で描かれる前者と、ロボットであるデイビッドの視点で描かれる後者との差だ。
『箱の中の羊』において重要なのは、“生きている人形”を受け入れる人間たちの感情であり、その受け入れ方や生きざまである。それが、この映画をSFではなく、リアルなものにしている。
綾瀬はるかと大悟は見事であった。母として、息子を失った喪失感から逃れることができず、「ヒューマノイド・翔」に癒やしを求める綾瀬の演技には、胸にちくりと刺さるものがあった。その一方で、最後まで母としての強さを見せ、偽物の「ヒューマノイド・翔」とは一定の距離を取ろうと努める複雑な母親の姿を、綾瀬は体現していた。
ところが、“生きている人形”に「ルンバだ!」と嫌悪感を示していた父親の大悟は、反対に、どんどん「ヒューマノイド・翔」にのめり込んでいく。
反比例していく夫婦の感情曲線が見事に描かれていて、なかでも、映画初主演となるお笑い芸人の大悟には驚かされた。
ファーストシーンこそ違和感アリアリだったが(笑)、すぐにこの物語にジャストフィットすることが分かり、その後は、お笑い芸人としての大悟ではなかった。
嫌そうな顔をしながら喜怒哀楽を表すのは、いつもの大悟なのだが、健介そのものであり、ヒューマノイド翔に「おじさん」と呼ばせていた大悟は、“そして父になる”のである。
別に、しゃれているわけではない。
育ててきた子が実の子ではないと知った、福山雅治が『そして父になる』(13)で演じた父親の複雑な感情や葛藤と通底していると感じたからだ。
親子の血のつながりは、決して断つことができない。
ところが、“生きている人形”は返却可能だ。その結果、生まれる“捨てヒューマノイド”。
これが社会問題になっていくことを、是枝監督も強く懸念しているのだと思う。
実は、こここそ是枝作品の原点ともいえるテーマだ。
