押井守監督が語る、“わからない映画”の愉しみ方「ノーランの映画は、理解できなくても不満にならない」【押井守連載「裏切り映画の愉しみ方」第5回『メッセージ』後編】
独自の世界観と作家性で世界中のファンを魅了し続ける映画監督・押井守が、Aだと思っていたら実はBやMやZだったという“映画の裏切り”を紐解いていく連載「裏切り映画の愉しみ方」。第5回前編では、ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督がテッド・チャンの中編「あなたの人生の物語」を映画化した『メッセージ』(16)をテーマに、“SFの快感原則”について語っていた押井監督。後編では、本作で駆使された映画的表現を深堀りしていく。
「映画という表現手段をここまで自由に駆使した作品はめったにない」
――押井さんは本作を「裏切りが映画の本質的な力になることを証明している」とおっしゃっています。
「将来起こるべき出来事を冒頭にもってきて、主人公のキャラクター(ルイーズ/エイミー・アダムス)を誤解させるところから映画をスタートさせている。この女性は、過去にたくさんの不幸を経験したおばさんなんだと思っていたら、そうじゃなかった。将来に起きる不幸を甘受するおばさんだった――そこがまず、見事な映画的裏切りなんだよ。なぜなら、編集の力を使った映画にしか出来ない裏切りだから。つまり、『メッセージ』に用意されているのは、いわゆるどんでん返し、例えるならおっさん同士の駆け引きから驚くべきどんでん返しがある『探偵スルース』(72)のような“裏切り”のみならず、それを映画的な技術と興奮が支えているということ。映画がもつ力を縦横無尽に駆使しているんですよ。映画という表現手段をここまで自由に駆使した映画はめったにないんじゃないの?すごい映像や音響の作品はあっても、映画そのものの文法まで全部つかった映画はあまり見たことがない。ある意味でいうと、ミステリ小説で言うところの叙述トリック(文章の書き方で読者を騙す仕掛け)に近いのかもしれない。だから私は、単にSF映画としてすごいだけではなく、映画としてすごいと思っている…。何度も言っちゃうけど。
そういうふうに観ていると、タコエイリアンのデザインが悪いとか、彼らがなにをしに地球に来たのかなんていうのは意味がない。ある日、突然やってきて、ある日突然、去って行くだけ。それだけでちゃんと成立している映画なんです」
――原作がまさにそうでした。
「映画にはアメリカを筆頭に、日本や中国を含め多くの国がエイリアン問題を巡って論争するわけだから、もっとポリティカルにできると思うけれど、そうはしてないでしょ。主人公の個人の葛藤を巡る物語に徹していて、将来、愛娘が死ぬことを知るけれど、それでもやはり子どもを産む。それを受け入れることが、この映画のひとつの“メッセージ”なんですよ。不幸になるとわかっているんだから避ければいいのになぜ避けないんだという人も多数いたみたいだけど、そういう人は人生がまったくわかってないんです!人生もわかってなければ映画もまるでわかってない。だから、自分が無茶苦茶言ってることにも気づいてない。そもそも『映画とはこういうものだ』とわかっているつもりになっている時点でもうダメです。オレは映画をわかっていると思いあがっているから、そんな無駄な葛藤に巻き込まれる。映画はどんな観方をしてもオッケー。それは映画の宿命といっていい。表現として未完だから仕方ない」
――でも押井さん、小説も音楽も、ひとりひとりの感想があるのは同じじゃないですか?
「例えば、ダンスとか抽象度の高い絵画になるとお勉強が必要で、いわゆるツウと言われる人間にならなければいけないというのがあるけれど、仰るとおり、ほとんどの表現における感想は自由ですよ。ところが、なぜか映画だけは誰にもわかるのが当然、様々な解釈が存在することを否定される傾向が強い。映画だけは、誰にでもわかるべきだと思っている人が多いんだよ。私に言わせれば“べき”なんて言葉を使うこと自体、もうダメだけど」
――というと?
「『せっかくお金を払い、せっかく時間を費やして観たのにおもしろくなかったから金と時間を返せ!』という人がたくさんいるということ。なぜ、そうやって怒るかと言えば、映画はおもしろいのが当然、わかるのが当たり前と決めつけているからです。私は学生時代から浴びるように映画を観てきたけれど、お金と時間をつかって損をしたなんて思ったことは一度もない。もちろん、凡庸な映画、駄作と言われても仕方ない映画はたくさんある。そういう映画に出会ったら、どこがダメなのか?なぜおもしろくないのか?そういうことを考えれば楽しめるだけじゃなく、映画の勉強にだってなる。私の持論は、傑作を観ても映画の本質はわからない。ダメな映画こそが映画の本質を教えてくれる、ですから」
――私も駄作を観てお金返せなんて思ったことは一度もないですね。駄作は駄作なりの愉しみ方があると思っています。時々、駄作のほうをよく覚えていたりして(笑)。
「そういうのが正しい映画の愉しみ方なんです!ついでに言っておきたいのが、最近、気になっている“映画におけるSNSの表現”。配信で観た“白雪姫なんとか”いうミステリ映画にもSNSのコメントをたくさん出して、情報が拡散しているということを表現していた。麻紀さん、この映画観た?」
――もしかして『白ゆき姫殺人事件』(14)でしょうか?人気の作家、湊かなえの同名小説の映画化のようですが、私は観てないですね。
「そういうタイトルだったかな。美人OLが何者かに殺され、その犯人を暴くというミステリで、いろんな人が被害者について、容疑者となる同僚OLについて証言するんだけど、そのひとつひとつを違う表現にしていて飽きさせない努力をしていた。それはいいんだけど、SNSの表現はどうなんだろうってね。SNSで悪評を拡散させて人を追い込むというのを映画でやってなにが楽しいのかなと思ったんですよ」
――この映画は10年ほど前の作品ですが、いまでもSNSで人生が狂わされてしまうという映画はたくさんつくられていますよ。今年公開された、阿部寛の『俺ではない炎上』いう映画もそんな1本のようでした。
「そういう表現というかエピソードは時間が経つと無効になっちゃうと思わない?そういうところに工夫を凝らせば凝らすほど映画としての訴求力は落ちると思うけど…」
――映画として勝負してないということですか?
「そうです。ただいまっぽくなるだけ。映画にまったく無関係だとは思わないけど、すでにSNS的なアクチュアリティはほとんど無効になっちゃったんじゃないの?いまはSNSがテレビに勝ったと言われていて、オールドメディアの敗北をみんな喜んでいるようだけど、結果がそう変わるとは思わない。SNSもオールドメディア同様、時間と共に無効になる時が来るんです」

