押井守監督が語る、“わからない映画”の愉しみ方「ノーランの映画は、理解できなくても不満にならない」【押井守連載「裏切り映画の愉しみ方」第5回『メッセージ』後編】
「“わかる”か“わからない”かで判断していると、映画本来のすばらしさはわからない」
――SNSに代わるメディアが登場すればそうなってしまうんでしょうね。でも、確かに映画などで使われるSNSの表現には正直、飽きちゃたところはあります。だいたい同じ表現なので。とりわけミステリ系の映画等ではよく使われているのかもしれない。
「そもそも、ミステリというのは映画には向いてないんです。文字で書かれた世界を理解するのと、映画をリアルタイムで観るというのはまるで異質の経験。正統派のミステリであればあるほど映画にしづらい。映画の場合、キャスティングには序列があって、犯人は、上から数えて3番目とか4番目の役者と概ね決まっている。じゃあ意表を突くため、最後に見知らぬ犯人が現れるというのがいいかと言えばそれも違う。つまり、映像になった時点でミステリとしては破綻しているんです、私に言わせれば。消去法で自動的に犯人がわかってしまうので映画には向かないんだよ。(アガサ・)クリスティなんてその典型にもかかわらず、何度も映画化されているのは知名度の高さだけ。そして、SFもミステリ同様、映画には向かない。これも私の持論だけど」
――押井さん、「SFは絵だ!」と野田昌宏さんもおっしゃっていたくらいなので、映像に向いているんじゃないですか?
「『スター・ウォーズ』とか『宇宙英雄ペリー・ローダン』のようなスペースオペラは映像に向いているけど、例えば侵略もので、宇宙人が出てきてドンパチする映画と思っていたら違っていたなんていう場合が多いのがSFじゃないの。宇宙人が出てくるならアクションになって当然、ならないほうが不自然と考えるのはそもそも出発点からして間違えているんだけど、そういうケースをよく見る。ボタンの掛け違いが多いジャンルなんです」
――ということは、裏切られたと思う人も多いということ?
「そうなるよね。(クリストファー・)ノーランの『インターステラー』(14)もそうでしょ。ある意味、裏切りの連続で、『メッセージ』よりも裏切り度は高く、理解度で言うと低いかもしれない。彼の映画を一度観ただけで理解できる人はそうはいない。でも、ノーランの映画は観終わると満足感しかない。絵もすばらしいし、なにより映画の文法の作り方が見事。多少、理解できないところがあったとしても、それが不満にはならないんだよ。わからないのならもう一度、観ればいいと思うくらいでしょ?わからないからといって映画の評価が下がるわけでもない。ノーランの映画は正しい愉しみ方をしている人が多いのに、なぜか『メッセージ』は叩かれている。私に言わせれば、映画を“わかる”“わからない”で判断していると、いつまで経っても映画本来のすばらしさはわからないんです!」
――そうかもしれませんね。
「もうひとつ『メッセージ』がすばらしいのは、主人公を言語学者にしたところ。原題は『Arrival』。もちろん、宇宙人の“到着、到来”を意味しているんだろうけど、言語学者が新しい言語を学ぶことで“到着”した新しい認識という意味も込めているんだと思う。ポイントはそこ。新しい言語を理解するというのはどういうことなのか?世界が変わるということだとわかるのがこの映画だよね。
新しい言語を理解するという行為をスキルとして考えると実用性のみで終わってしまうけれど、実はそうじゃない。言語の本質について考えれば『メッセージ』はもっともっとおもしろくなる。そういうおもしろさに満ちた映画なんですよ」
――ということは押井さん、本作の裏切りをまとめると…。
「“裏切る”という行為が映画を支えている。こんな見事な例はおそらくないだろう、ということです」
取材・文/渡辺麻紀

