『もしもの愛』他者の痛みを映画でどう描く?イ・チャンドン監督&キャストが明かす、創作への葛藤と“演じない”芝居
イ・チャンドン監督が、『バーニング 劇場版』(18)から約8年ぶりとなる新作『もしもの愛』(劇場公開中、Netflixでの世界配信は11月6日)を完成させた。第83回ヴェネチア国際映画祭で銀獅子賞(審査員大賞)に輝き、第99回アカデミー賞国際長編映画賞の韓国代表にも選出されている。ヴェネチア国際映画祭の熱気に包まれるなか、公式記者会見でイ・チャンドン監督をはじめ、キャスト陣に本作に込めた想いを聞いた。
物語の出発点は、韓国で実際に起きた大企業の大量解雇とその後の悲劇だった。イ・チャンドン監督は長年この映画化を試み、資金調達が頓挫する時期を経て、Netflixが製作に参入。労働と労働力の変化、そしてテック起業家の台頭という現代のテーマを扱う作品が、配信プラットフォームの支援で完成する構図は、作品の意義をいっそう複雑なものにしている。
物語は、勤めていた工場のストライキが壊滅的な結末を迎えたあと抜け殻のようになってしまったホソク(ソル・ギョング)と、夫を支えマスク工場で働くミオク(チョン・ドヨン)の夫婦、そして幼い息子を中心に描かれる。ホソクのかつての同僚の葬儀で、夫婦は裕福な夫婦、ドキュメンタリー作家のイェジ(チョ・ヨジョン)と、ITを駆使し膨大な金を稼ぐ新富裕層のサンウ(チョ・インソン)と偶然の出会いを遂げる。イェジは、工場労働者たちが受けた不当な扱いを題材にしたドキュメンタリーをインディペンデントで撮っている。イェジはミオクに近づいて友人となり、ホソクの身の上に起きたことを映像に収めようとする。サンウはそれを「メソッド演技」だと皮肉るが、イェジは「私は彼らを愛そうとしているの」と、思わず口にする。サンウの別荘にホソク一家が誘われ、決して交わることのなかった二組の夫婦の軌道が一瞬重なる。
「ドキュメンタリー監督の視線を取り入れたことで、それを自分自身の物語にすることができた」(イ・チャンドン監督)
2009年、韓国の双龍自動車が大量解雇に踏み切り、労働者は背水の陣のストライキで応じ、当局が過酷な鎮圧で応えた事件が、この映画企画の発端になっている。イ・チャンドン監督はヴェネチア映画祭で行われた取材で、「韓国社会に非常に深刻な後遺症を残しました。当時の私はこれを劇映画にしたいと考え、脚本を書き、撮影準備段階まで進めました」と振り返る。だが、撮影には至らなかった。資金調達が頓挫したという事情に加え、監督自身が、この題材に向き合うことに迷い続けたからだった。「この物語を劇映画の形で語ることに、自分にとってどんな意味があるのか。そもそも自分に、彼らの物語を語る資格があるのか。彼らの実際の暮らしや痛みに近づくほど、その問いに確信を持って答えることができませんでした」。
長い停滞を破ったのは、『バーニング 劇場版』にも参加した脚本家オ・ジョンミが発した、「ドキュメンタリー監督の視線を入れてみてはどうか」という一言だった。イ・チャンドン監督は「これは他者の痛みの物語であるだけでなく、映画作家としての私自身の物語にもなりうると、突破口が開けました。他者の痛みをどう扱うべきか。それは、映画を撮る前に小説を書いていた頃から、ずっと私とともにあった問いです」と語り、民主化運動の学生であれ、労働者であれ、マイノリティであれ、苦しむ人々を取材し痛みに近づくほど、自問せざるをえなかったと明かす。「どのようにその人たちの話を伝えるべきなのか。自分とその人たちとの距離はどれくらいであるべきなのか。その人たちになりきるべきなのか、それとも観察者であるべきなのか。年を重ねたいまでも、常についてまわる問いです」。
『パラサイト 半地下の家族』(19)で、裕福な家庭の妻を演じたチョ・ヨジョンが扮するドキュメンタリー監督イェジの存在は、この問いを物語の内側に取り込む装置になった。4人の主要人物のうち、監督自身の立場はイェジに最も近いという。「解雇された労働者の苦痛だけを見せたくはありませんでした。ドキュメンタリー監督の視線を取り入れたことで、それを自分自身の物語にすることができました。自分の視点や、対象に向き合う態度について、より正直に語れる構造が生まれたのだと思います」。イェジの独立的映画製作を、表面上は応援する夫のサンウは「君がやっているのはメソッド演技にすぎない。君とあの人たちは同じではない」と冷笑するが、監督は「私も、もしかするとそうなのかもしれません」と認める。この視点が、『もしもの愛』全体を貫く問題意識となっている。
映画には、いくつもの視線が重なる。イェジのカメラ、夫婦に起きていることを捉える息子の視線、別荘で起きるすべての事柄を記録する監視カメラ、そして、スクリーンを見つめる観客自身の視線。「ドキュメンタリー監督のカメラは、時に非道徳的に見えるかもしれません。対象を利用し、搾取しているようにさえ見えるかもしれない。けれど、その視線があるからこそ、苦しんでいる人たちの物語が私たち観客に届いたとも言えるのではないでしょうか」。ホソクがイェジのカメラの前に座り抑え込んできた心情を吐露したことにより、長年苦しめられたトラウマを解き放ち、本当の意味での癒やしにつながったのかもしれない、と考えることもできる。「映画人であれジャーナリストであれ、視線の倫理の問題は私たちにずっと付いて回ります。ですが、同時に、それこそが世界を少しでも良くし、断たれたり傷ついたりした人と人とのつながりを癒やすものになりうるとも考えられます」。イ・チャンドン監督の言葉は、この物語を語るために費やした時間と問答を、自身に向けて肯定するように聞こえる。
「映画こそが、人と人とをつなぎ、互いの内面を理解し、共感させる最も強力な媒体」(イ・チャンドン監督)
映画という媒体を選んだ理由も、そこにつながる。「映画こそが、人と人とをつなぎ、互いの内面を理解し、共感させる最も強力な媒体だと考えてきました。自分が取りたいコミュニケーションの形を最もよく実現できる媒体だと思ったから映画を選びましたし、その気持ちは今も変わりません」。『バーニング 劇場版』から8年、世界は急激に変化し、現在も変わり続けている。その激動のなか、イ・チャンドン監督が考える、この時代に映画を作る意義とは?「なぜ私が簡単に映画をつくれないのか、なぜ新作を撮るまで8年もかかったのか。その答えは、その質問のなかにあると思います」。この映画が解雇労働者の家族の物語であると同時に、映画をつくる人々の物語にもなったことは、地続きだという。監督が見据えるのは、階級の分断が日に日に広がる世界だ。かつての階級問題とは次元の違う問題が目の前に広がる。「言うなれば、超資本の時代に入ったのです。その力は技術革命と結びつき、私たちのあらゆる問題を解決し、自由にしてくれそうな姿をしている。けれども、その力が私たちの日常を丸ごと奪い去ることもありえます」。劇中で、ミオクがスティーブ・ジョブズに向ける無邪気な眼差しも、その象徴と言える。そして監督自身も、超資本の社会構造と無縁ではいられないと認める。「映画を作る者として、私も資本の力を借りずに映画を作ることはできません。その資本によって映画を作りながら、自分なりの独立性、自分なりの自由を得られるのか、見つけられるのかと悩みます。それは、ミオクがこの構造のなかで自分の自由をどう見つけるのかと、本質的につながっていると思います」。
この自問は、本作の成り立ちとも重なる。資金調達が頓挫した企画に手を差し伸べ、製作として参入したのはNetflixだった。労働の価値が揺らぐ時代を描く作品が、テック企業の資本で完成する。その複雑さを、監督はむしろ「意義のある試み」と位置づける。「韓国映画、特に韓国のコンテンツは、OTT(ストリーミングサービス)を通じた広がりによって、ご存じのとおり世界的な人気と成功を享受してきました。その結果、韓国の業界に多くの前向きな活力が吹き込まれたことは確かですが、その一方で、副作用もありました。たとえば、コロナ禍の影響があり、韓国では劇場に対する規制が非常に厳しく、2年以上のあいだ、ほとんど観客が戻っていませんでした。その間にOTTが大きく勢いを伸ばし、その圧力と劇場の苦境、OTTの台頭が重なって、業界全体の不均衡が生まれ、韓国の映画界に非常に深刻な問題を引き起こしました。この数年、多くの映画人が、それを乗り越えようと最善を尽くしています。この『もしもの愛』は、ストリーミングと映画館がゼロサムゲームで争うのではなく、互いに利益を得ながら共存できる道がある、ということを示しているという意味で、とても意義のある試みだと考えています」。

