西部劇がベースで当初はマウイが主人公だった!?『モアナと伝説の海』をヒーロー映画の文脈で語ろう
時代に伴うヒーローの在り方の変遷
西部劇の凄腕ガンマンや保安官は、アメリカの一時代のヒーローだった。そんな英雄の在り方は、時代のトレンドによって変化していく。アメリカン・コミック・ヒーローの元祖といえる「DCコミックス」の由来が、もともと「ディテクティブ・コミックス(探偵漫画)」だったように、探偵小説やフィルム・ノワールが流行した時代はダンディな探偵が先端的なヒーローとして扱われ、スーツを着て悪と戦うバットマンもまた、「探偵ヒーロー」として活躍していたキャラクターだった。
いつの時代も共通していたのは、ヒーローが弱い者を助け、秩序をもたらすという、極めて王道的な枠組みである。しかし、『モアナと伝説の海』が制作された2010年代は、「勇気ある追跡」型の強く揺るがない男性像はすでにクラシカルなものになっていた。仮にマウイを単独ヒーローとして想定したとしても、これまで語られてこなかったストーリーが必要となっていたはずだ。
近年、ディズニーが急進的な姿勢で多様性を表現しているといった指摘や批判があるが、これまで長い年月の間、エンタテインメント業界のトップを走るなかで保守性を含みながらも、時代の要請や社会規範の変遷に従って作風を変化させてきたというのが、同社の基本的な立ち位置。モアナという少女のキャラクターの視点を取り入れ、責任と自己実現という軸のなかで葛藤しながら成長していく物語にシフトしたことは、ある意味で必然的だったのかもしれない。
ヒーローの役割をモアナとマウイに分配した『モアナと伝説の海』
しかし、本当にその選択が、『モアナと伝説の海』をヒーロー映画であることから遠ざけたのだろうか。知っての通り、現在では先ほど言及したスーパーガールをはじめ、ブラック・ウィドウやキャプテン・マーベル、ミズ・マーベルなどなど、様々な世代の女性ヒーローが単独で活躍する作品が、当然のように撮られるようになった。
一般的なイメージでは、ヒーローとは特別な力を持ち、悪と戦い、危機に陥った人々を救う存在である。その定義に従えば、超人的な能力を持つマウイこそがヒーローであり、モアナはそうではないように見える。しかし、ヒーローをひとたび「強い力を持つ者」ではなく、「誰かのために行動する者」と考えたとしたら、どうだろうか。
モアナは、自分の内側にある「海へ出たい」という衝動に従うが、その行動は同時に共同体の未来を引き受けることでもある。彼女にとって自己実現と、他者を救うことは切り離されてはいない。自分が何者なのかを知ることは、自分だけの夢を叶えることではなく、自分が生まれ育った島や、そこに暮らす人々のためになにができるのかを見つけることでもある。
ここにモアナの利他的なヒーロー性があるといえる。彼女はマウイの力に守られるだけではなく、彼に再び立ち上がる理由を与えることになる。2人は互いを救い、それぞれが別の形でヒーローになる。その意味で『モアナと伝説の海』は、モアナを主人公にしたことでヒーロー映画でなくなったのではなく、ヒーローという役割をモアナとマウイに分配し、ヒーローという概念を拡張した作品といえるのかもしれない。
もちろん、『モアナと伝説の海』は女性の自立の物語であり、世代を超えた連帯の物語でもある。民族のルーツを尊敬し、本来の文化を伝える意思を描いた物語でもある。一人の少女が人間と自然とのかかわりを模索する物語だともいえるだろう。そして、もう一つの側面として、ヒーローを描いた物語として見ることができるのだ。アニメーション版はもちろん、実写版『モアナと伝説の海』もまた、そんな楽しみ方ができる作品になっている。
文/小野寺系
