見えない“運命”を揺さぶった、“偶然”の出会い『急に具合が悪くなる』【小説家・榎本憲男の炉前散語】
二律背反の中で葛藤するマリー=ルー
マリー=ルーは介護施設「自由の庭」でディレクターを務めています。彼女は、介護士や看護師の上に立ち、この施設の介護の方針を決める権限を持つポジションにあるようです。そして、彼女は“人間らしくケアすることによる介護”、ユマニチュードを本格的にこの施設に導入しようとしています。もちろんよいことです。けれど、この方法は、経済的な効率・採算性の観点から見ると、かなり無理がある。その無理を押し通そうとすると、働いている介護士や看護師らに大きな負担を強いることになり、その不満はすでに出はじめています。ソフィ(マリー・ビュネル)というベテラン看護師はマリー=ルーに異を唱えます。ソフィはユマニチュードに反対なわけではなく、現状ではスタッフらの犠牲の上にしか成り立たないと主張しているのです。
このあたりを振り返ったとき、僕は精神病院を舞台にしたある映画を思い出しました。『カッコーの巣の上で』(75、ミロス・フォアマン監督)は、入居者を画一的に管理しようとする病院側の体制とそれに反逆しようとする男を描いた作品で、精神病を偽って入居してきた囚人のマクマーフィー(ジャック・ニコルソン)と管理体制を維持しようとする看護婦長ラチェッド(ルイーズ・フレッチャー)との対立が描かれます。当時、このドラマは管理社会の縮図として捉えられ、マクマーフィーは人間性を主張する英雄として、看護婦長はそれを抑圧しようとする非人間的な悪漢として語られていました。ところが、公開からすこし経ったあと、このような見方にまったく異なる視線を投げかけた識者が現れました。詩人の谷川俊太郎が、臨床心理学者の河合隼雄との対談で、こんな発言をしたのです。
ぼくはちょっと違う見方をしていまして、というのは、うちに恍惚老人が一人いるんです。恍惚老人というのはご承知のとおり、ある意味で精神病に近い状態でしょう。 そういう老人と毎日顔をつき合わせて暮らしていて、一人の人間が自分の容量の限界を意識したら、ある程度相手を非人間的に扱わないと、自分が破滅するという状況があると思うんです。だからぼくは、その映画の看護婦がああも冷酷にならざるを得なかったというところに、精神を病んだ人たちを扱う上でのむずかしい問題があるんじゃないかということを、わが身に引きつけて思って、むしろ看護婦のほうに同情したようなところがあるんですね。
(河合隼雄・谷川俊太郎「魂にメスはいらない ユング心理学講義」講談社+α文庫より)
谷川が恍惚老人という言葉で表現しているのは、まさしく認知症を患った高齢者でしょう。そして、それに続く谷川の感想は、ソフィーの主張そのものではないでしょうか。入居者をモノ(と言えば言い過ぎであるなら動物)として扱って処理すれば効率は上がる、人間として丁寧なケアを施せば採算がとれず、従業員らを犠牲にして実行せざるを得ないという二律背反の中にマリー=ルーはいるのです。
そんな彼女は、ひょんなことから演出家の真理と出会い、彼女が作・演出を務めた舞台を見に行って感銘を受けます。上演後のQ&Aで真理はステージ4の癌を患っていること、「急に具合が悪くなるかもしれない」と医者に告げられたことを話します。ん? これは考えてみればおかしなことですよね。急に具合が悪くなるのかもしれず、さらに「そうなったら、あとは早い」とまで言われているのですから、パリになどいないで、主治医のそばで寝起きし、すぐに連絡が取れるような体制を整えているべきでは? ――そうだな、と思ったら、あなたは冒頭近くで書いた「確率論を装った〈弱い〉運命論」を受け入れていることになります。女優のアンジェリーナ・ジョリーは、遺伝子検査で遺伝子の変異が見つかり、その変異データに基づいて医師が算出したリスクを受けて、乳房切除手術を選択しました。これが「〈弱い〉運命論」の受け入れなのかどうかは微妙なところですが(ジョリーはひょっとしたら、確率論を主体的に乗り越えようとしたのかもしれません)、確率論的な未来が、健康な身体にまで介入を要求するようになっている例ではあると思います。ともあれ、原作者の宮野真生子はこのような「〈弱い〉運命論」を、九鬼周造の哲学のキーワードである“偶然性”を用いて突破しようと試みます。
1959年生まれ、和歌山県出身。小説家、映画監督、脚本家、元銀座テアトル西友・テアトル新宿支配人。2011年に小説家、映画監督としてデビュー。近著には、「アガラ」(朝日新聞出版)、「サイケデリック・マウンテン」(早川書房)、「エアー3.0」(小学館)などがある。「エアー2.0」では、第18回大藪春彦賞の候補に選ばれた。映画『カメラを止めるな!』(17)では、シナリオ指導として作品に携わっている。

小説家・榎本憲男の炉前散語
