敵のいない、災害としての戦争。『黒い雨』と『この世界の片隅に』にみる日本独自の戦争観【小説家・榎本憲男の炉前散語】

敵のいない、災害としての戦争。『黒い雨』と『この世界の片隅に』にみる日本独自の戦争観【小説家・榎本憲男の炉前散語】

日本に根づく「あわれ」的感覚のもつ美しさと危うさ

黒い雨』(今村昌平監督、89)と『この世界の片隅に』(片渕須直監督、16)は戦時と戦後における庶民の生活を描いた物語であると同時に、そこでは原爆が描かれます。主人公は兵士ではないので、敵が描かれないのは当然かもしれません。けれど、敵を憎む気持ちすらほとんど吐露されることがなく(ただ、『黒い雨』には、北村和夫が演じる閑間重松が「ピカなんか落としやがって」と重々しくつぶやくシーンがあったような記憶があるのですが)、身近な人を案ずるやさしい心が描かれる。『黒い雨』で、北村和夫が演じる閑間重松の怒りは、原爆を落としたアメリカ政府ではなく、被爆者に対して偏見を持つ日本社会に向けられています。『この世界の片隅に』では、ヒロインが進駐軍の配給した残飯をもらって食べ、「うまい!」と感動するシーンすらあります。

『黒い雨』と『この世界の片隅に』では、物語の時間軸において、原爆が投下される箇所はまったくちがいます。前者は映画がはじまってすぐに、かなり衝撃的な映像で描かれ、後者は1時間40分あたりで、爆心地から少し離れた呉市で、ヒロインのすずがキノコ雲を見るという形で伝えられる。このように、二作品は、最も強烈な出来事が描かれる時間軸上のポイントとその表現もかなり異なっているにもかかわらず、ひたすらに下降する物語である、という共通点を持ちます。

田中好子演じるヒロインの髪が被爆の影響で抜け始める…
田中好子演じるヒロインの髪が被爆の影響で抜け始める…[c]Everett Collection/AFLO

二作品とも、状況は、物語が進むにつれて、悪化の一途をたどるのです。そのような語りは、その先の展開がまったく予測できない魅力を持った物語(ジェットコースタームービーなどという言葉が一時期使われたことがありましたが)とはまったく異質のものです。

運命に翻弄されつつもそれに耐え、人と人との関係に一縷の希望を見出して生きる、それを徹底的に描くことによって、そこにあわれを醸し出す、まったく異質な作品の共通点はここにあります。遠い敵の顔は見ないで、身近にいる人を発見し、つながろうとするのです。<敵の不在>と<耐え忍ぶ庶民の連帯>という構図が、「自然災害」的感覚としての戦争観を裏打ちしているのです。

『黒い雨』で、被爆者であるということから、縁談に見放されている中、病状が悪化した矢須子(田中好子)は、戦場でのPTSDに苦しむ若者、岡崎屋悠一に抱きかかえられてトラックに運ばれる。その二人の姿を見て、主人公は一縷の望みを見出すかのように映画は終わる(このシーンも、さらにこの若者のキャラクターさえも原作にないものです)。『この世界の片隅に』では、戦争が終わって夫と遭遇したヒロインのすずは、この世界の片隅で夫と出会えたことの感謝を伝えるとともに、原爆によって戦災孤児となった女児を育てることになります。

体調を崩した矢須子を抱きかかえて運び出す岡崎屋悠一
体調を崩した矢須子を抱きかかえて運び出す岡崎屋悠一[c]Everett Collection/AFLO

日本の戦争映画は、過酷な状況においてともに耐え忍ぶ、身近な人間との関係性を描くことで、最後にあわれが滲む。葛藤よりも、あわれを重視するのが、日本映画の真骨頂だと僕は思う。なので、ハリウッド流のシナリオ技術論では、これらの映画を解説することはなかなか難しいと思われます。

と同時に、だけど、と僕は思うのです。このことは、この日本独自の美学には、他者を見ようとしない危険も備わっているのではないか、と。戦争を「災害」として捉えることは、加害と被害の構造を曖昧にし、<自己内省>には至るものの、<他者の視点>を欠いてしまう可能性がある。ハリウッド的英雄主義に対する日本的「あわれ」は、対立を回避する美しさを持ってはいるが、そこには危うさも潜んでいるのでは、と。そんなことを夏が来る度に思い起こします。


文/榎本 憲男

■榎本憲男 プロフィール
1959年生まれ、和歌山県出身。小説家、映画監督、脚本家、元銀座テアトル西友・テアトル新宿支配人。2011年に小説家、映画監督としてデビュー。近著には、「アガラ」(朝日新聞出版)、「サイケデリック・マウンテン」(早川書房)、「エアー3.0」(小学館)などがある。「エアー2.0」では、第18回大藪春彦賞の候補に選ばれた。映画『カメラを止めるな!』(17)では、シナリオ指導として作品に携わっている。


小説家・榎本憲男の炉前散語

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