敵のいない、災害としての戦争。『黒い雨』と『この世界の片隅に』にみる日本独自の戦争観【小説家・榎本憲男の炉前散語】

敵のいない、災害としての戦争。『黒い雨』と『この世界の片隅に』にみる日本独自の戦争観【小説家・榎本憲男の炉前散語】

小説家で、映画監督の榎本憲男。銀座テアトル西友(のちに銀座テアトルシネマ)や、テアトル新宿の支配人など、映画館勤務からキャリアをスタートさせた榎本が、ストーリーを軸に、旧作から新作まで映画について様々な角度から読者に問いかけていく「小説家・榎本憲男の炉前散語」。第7回は、戦後80年という節目のタイミングを迎えた日本において、戦争を題材とした映画がいかにして描かれてきたのかを、『黒い雨』と『この世界の片隅に』を取り上げ、日本独自の戦争観に注目しながら紐解いていきます。

戦後にうまれ、受け継がれていった日本人の価値観

【写真を見る】原爆の投下後、空から降ってくる“黒い雨”に打たれる人々
【写真を見る】原爆の投下後、空から降ってくる“黒い雨”に打たれる人々[c]Everett Collection/AFLO

夏だ。日本人は8月になると戦争を振り返ります。戦後はさまざまな価値観が浮上しましたが、戦争に対する忌避感と平和への志向は、世代を越えて受け継がれた、貴重な価値観である、と言えるでしょう。

また、戦争をとらえる感情はどのようなものであるのかという点においては、戦後からではなく戦中から日本人は変わっていないということが、戦争を描いた日本映画を観ているとわかります。第二次世界大戦の後、連合国によって指定された日本人指導者たちの戦争犯罪、平和に対する罪、人道に対する罪などを裁くことを目的として、東京裁判が開かれました。戦争には勝ち負けがつきものでありますが、戦勝国が敗戦国を犯罪者として、国際条約に基づかず、事実上は米国主導の軍政下で一方的に裁くという行為が、このときはじめて行われたわけであります。 


東京裁判と同時期の、ナチス・ドイツの戦争犯罪を裁いたニュルンベルク裁判を脚色して制作された、スタンリー・クレイマー監督の『ニュールンベルグ裁判』
東京裁判と同時期の、ナチス・ドイツの戦争犯罪を裁いたニュルンベルク裁判を脚色して制作された、スタンリー・クレイマー監督の『ニュールンベルグ裁判』[c]Everett Collection/AFLO

一方、原爆投下は国際法違反という認識も徐々に深まりつつあるようです。大量破壊兵器を市街地のど真ん中に落としたアメリカ政府の行為を正当化する、説得力のある論を僕は聞いたことがありません。ただ、日本は、アメリカに対して正式に抗議を申し込むというステージには進みません。現職のアメリカ大統領としてはじめて広島を訪れたオバマが「71年前、ある晴れた雲一つない朝、死が空から落ち、世界が変わりました」などというあいまいなスピーチをしても、「落ちたのではなく、お前らが落としたんだろう」というような抗議はしません。「水に流す」という言葉がありますが、従軍慰安婦問題で、隣国の韓国が日本に謝罪と賠償を要求し続けているのとは対照的であります。

このような日本政府の態度については、それは寛容ではなく、アメリカと日本の主従関係がそのような抗議を許さないのだ、という説もありますが、僕はこれを取りません。では、この慎ましさ(?)はなにに由来するのでしょう? ひとことで言うと、日本人は戦争をまるで自然災害のように捉える民族だからではないか、ということになります。これは膨大な資料からアカデミックに構築したものではなく、日本映画を観て、個人的に抱いた感覚なのですが。

■榎本憲男 プロフィール
1959年生まれ、和歌山県出身。小説家、映画監督、脚本家、元銀座テアトル西友・テアトル新宿支配人。2011年に小説家、映画監督としてデビュー。近著には、「アガラ」(朝日新聞出版)、「サイケデリック・マウンテン」(早川書房)、「エアー3.0」(小学館)などがある。「エアー2.0」では、第18回大藪春彦賞の候補に選ばれた。映画『カメラを止めるな!』(17)では、シナリオ指導として作品に携わっている。


小説家・榎本憲男の炉前散語

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