『ANORA アノーラ』のヒロインは、なぜ御曹司との結婚にこだわり、何と戦っていたのか?【小説家・榎本憲男の炉前散語】
アニーは“何と”戦っていたのか
となると、当然沸いてくるのは次のような疑問です。屈強な男三人に小突きまわされて、結婚の無効を宣言されてもなお、彼女が結婚にこだわる理由、闘う理由は何か。彼女は何と戦っているのでしょう。
夫と離婚はしない、この結婚を認めさせたい、というアニーはもはや夫を愛してはいない。ということは、「戦うべきではない戦いを戦っている」というややこしい事態が生じていることになります。観客の中に当然起こるこのような感情は、一味のひとりでアニーに好意を寄せる若いロシア人のイゴールがつぶやく「君があのファミリーに入らなくてよかった」というひと言が代弁してくれます。
しかし、観客がアニーを応援したくなる気持ちはくすぶり続けます。それはどこから湧き出てくるものなのでしょう。観客は、アニーの戦いがなんらかの意味を持つと感じているのです。それは、この社会の権力に対する弱者の「舐めんなよ」という気持ちの表れです。これは、格差社会が日を追うごとに激しくなる現代社会では、コメディというスタイルの隙間からリアルで切実な感情としてにじみ出てきます。
彼女は最終的に負ける。負けてもかまわないわけですが、やはり面白くはない。『ANORA アノーラ』が観客にもたらす感情はとても複雑です。この複雑さがまたユニークであるが故に、際立った作品になっているのだと思います。
複雑と言えば、ショーン・ベイカーの演出は、台詞と逆のことをアクションで表現するのにも冴えを見せています。離婚を強要され、アニーは豪邸での最後の夜を、イゴールと一緒に過ごす。彼が最初からアニーに好意を持っているのは観客の目には明らかです。けれどアニーにとって、イゴールはあくまでも敵。イゴールの言う「君があのファミリーに入らなくてよかった」は婉曲的な「好きだ」という表現ではあるのですが、「結婚が破綻してよかった」という意味も同時に持つことになります。だから、ぶんむくれたアニーはもう寝ると言ってリビングを後にして上階へ去る。けれど、ややあってからまた降りてきて、イゴールに赤い毛布を投げてやる。これはフランク・キャプラ監督の『或る夜の出来事』(本作品も結婚絡みのロマンチックコメディ、34)の「ジェリコの要塞」(ふたつのベッドを仕切るためのカーテン)が落ちたことを思い出させもします。イゴールはその毛布を自分の上にかけて寝る。それは、見終わって振り返ると、あのラストシーンを暗示する見事な伏線だとわかるのです。
文/榎本 憲男
1959年生まれ、和歌山県出身。小説家、映画監督、脚本家、元銀座テアトル西友・テアトル新宿支配人。2011年に小説家、映画監督としてデビュー。近著には、「アガラ」(朝日新聞出版)、「サイケデリック・マウンテン」(早川書房)、「エアー3.0」(小学館)などがある。「エアー2.0」では、第18回大藪春彦賞の候補に選ばれた。映画『カメラを止めるな!』(17)では、シナリオ指導として作品に携わっている。

小説家・榎本憲男の炉前散語