『ANORA アノーラ』のヒロインは、なぜ御曹司との結婚にこだわり、何と戦っていたのか?【小説家・榎本憲男の炉前散語】

『ANORA アノーラ』のヒロインは、なぜ御曹司との結婚にこだわり、何と戦っていたのか?【小説家・榎本憲男の炉前散語】

小説家で、映画監督の榎本憲男。銀座テアトル西友(のちに銀座テアトルシネマ)や、テアトル新宿の支配人など、映画館勤務からキャリアをスタートさせた榎本が、ストーリーを軸に、旧作から新作まで映画について様々な角度から読者に問いかけていく「小説家・榎本憲男の炉前散語」。第6回は、第77回カンヌ国際映画祭においてパルム・ドール受賞、第97回アカデミー賞では作品賞を含む5部門受賞の快挙を成し遂げたショーン・ベイカー監督の『ANORA アノーラ』(24)を取りあげ、とある日本映画と比較しながら、本作がなぜここまで際立って評価されたのか、その物語を「欲望」と「構造」で紐解きながら迫っていきます。

今年の2月、この連載で繰り返しお話してきた、映画のストーリーにおける欲望と構造という点において、注目するべき映画が公開されました。ショーン・ベイカー監督の『ANORA アノーラ』です。この二点において、『ANORA アノーラ』は、一見まったく似ていないように見える日本映画と実は似ていて、やはりちがう。そして、そのちがいがこの作品を際立たせているのです。

様々な映画祭で高い評価を受け、第97回アカデミー賞では作品賞含む5部門受賞の快挙を成し遂げた『ANORA アノーラ』
様々な映画祭で高い評価を受け、第97回アカデミー賞では作品賞含む5部門受賞の快挙を成し遂げた『ANORA アノーラ』[c]2024 Focus Features LLC. All Rights Reserved.  [c]Universal Pictures

※本記事は、『ANORA アノーラ』のネタバレ(ストーリーの核心に触れる記述)に該当する要素を含みます。未見の方はご注意ください。

『ANORA アノーラ』と新派劇の、「構造」における共通点

さて、何に似ているのでしょうか。本作品は、「構造」では、日本映画の黎明期に流行った新派劇に似ていて、「欲望」では、犬童一心監督の『ジョゼと虎と魚たち』(03)に似ています。では、まず構造からいきましょう。『ANORA アノーラ』のストーリーを圧縮すると以下のようになります。性的サービスを生業とするアニーは、ロシア系の超リッチな御曹司に気に入られ、専属のセックスパートナーとして雇い入れられた上に、結婚まで申し込まれる。アニーはこれを受け入れ、正式に結婚する。しかし、この件が相手の親にばれ、一味が家にやってくると、夫は急にうろたえだし、アニーを残して逃走する。屈強な男たちに捕まったアニーは、結婚の無効を言い渡される。しかし、アニーはこれを拒む。アニーとこの一味は、それぞれの目的で、夫の行方を追う。一味は結婚を無効化するため、アニーは無効を阻止するために。


結婚し、夫婦の時間が訪れたのも束の間、夫側の一味が家に突然押しかけてくる…
結婚し、夫婦の時間が訪れたのも束の間、夫側の一味が家に突然押しかけてくる…[c]2024 Focus Features LLC. All Rights Reserved.  [c]Universal Pictures

新派劇と本作はどこが似ているのでしょうか。それを説明する前に、新派劇とはいったい何かということを説明したほうがいいでしょう。説明に際しては、佐藤忠男氏の「日本映画史 第1巻 1896-1940」を参考に説明させてもらいます。なにせ、この新派劇というものは、映画史の中では重要視されるものの、フィルムが現存しておらず、僕も資料でのみ知るだけなのです。

サイレント映画時代、日本映画のジャンルは、時代劇と現代劇に大きく分かれていました。この現代劇を当時は新派と言ったのです。本来は、19世紀末に成立した日本の演劇の一流派のことです。歌舞伎に対しての新しい潮流という意味を込めての名称です(歌舞伎は旧劇と呼ばれることもありました)。ただ、新しいとは言うものの、西洋演劇を模倣しようとする新劇とはちがって、もっと大衆的な需要に応えたストーリーをもったものです。その代表的なものが悲恋でした。なぜ悲恋なのかというと、ここで『ANORA アノーラ』とリンクするのですが、身分のちがう男女の恋愛が描かれていたからです。親が伝統的な見合い結婚を望んでいるのに、若い男女が逆らって恋愛しようとすることによって悲劇が生じるというものです。大抵は男が金持ちのお坊ちゃんで、女は芸者とか家政婦です。ふたりは愛し合うけれども、周囲の無理解に引き裂かれる。――似ていますよね。

■榎本憲男 プロフィール
1959年生まれ、和歌山県出身。小説家、映画監督、脚本家、元銀座テアトル西友・テアトル新宿支配人。2011年に小説家、映画監督としてデビュー。近著には、「アガラ」(朝日新聞出版)、「サイケデリック・マウンテン」(早川書房)、「エアー3.0」(小学館)などがある。「エアー2.0」では、第18回大藪春彦賞の候補に選ばれた。映画『カメラを止めるな!』(17)では、シナリオ指導として作品に携わっている。


小説家・榎本憲男の炉前散語
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