構造で注目すべきなのはむしろ差異、『スター・ウォーズ』や『カリオストロの城』にみる“ジャンル映画”【小説家・榎本憲男の炉前散語】
類似する構造がみられる、“古いストーリー”としての神話
観客が求める物語にはパターンがある。この「観客」を「人類」と置き換えて、それを追究すると神話学になります。神話は人類が語った最も古いストーリーです。神話と民話はどうちがうのか。アカデミックに掘り下げるとボロがでるので、ここでは、「世界のはじまりについて語っているものが神話」という、とある宗教学者から教えてもらった説を採用します。神話を構造から論じたのが、文化人類学者のクロード・レヴィ=ストロースです。彼は南米の神話をたくさん採取して、そこから構造を取り出しました。このレヴィ=ストロースが南米と共に興味を持っていたのが、日本の神話です。そして、日本の神話研究と言えば、ユング系心理学者の河合隼雄です。ここで人類学者から心理学者にバトンが渡されました。心理学は、夢で心がわかるように、神話で人間の心が理解できるのではという発想をします。
神話へのアプローチの基本は比較です。あれとこれは似ている、と徹底的に構造を比較していく。例えば、ハイヌウェレ型神話というのがあって、これらは、「殺された女性の死体から豊穣な作物が生まれる」という構造を持ちます。ハイヌウェレという女神が殺され、その体が埋められた場所から様々な作物が生まれるというインドネシアの神話が元型のようです。日本では、田の神様のウケモチノカミが殺されて、彼女の体から、米や麦などの豊穣な作物が生まれたエピソードが「古事記」に載っています。非常に似ていますね。
現在において、もっともくり返し再生される神話のタイプは、ペルセウス・アンドロメダ型ではないでしょうか。「乱暴者が、流れ着いた先で怪物を退治し、乙女を救う」という構造を持ちます。日本では、スサノオノミコトのヤマタノオロチ退治とクシナダヒメとの結婚が代表例でしょう。このハイヌウェレ型の構造は、様々なバリエイションで、西部劇、股旅物、などに引き継がれています。宮崎駿監督の『ルパン三世 カリオストロの城』(79)もそうですね。ただし、これらには若干アレンジが加えられている。ヒーローは乙女から好意というギフトを受け取りますが、結婚という形で結ばれることは(ほぼ)ありません。結婚してしまっては、流れ者のヒーローとしては、「上がり」になってしまうからでしょう。
1960年代の終わり頃から1970年代にかけて、非神話的で、リアルなストーリーを持つ映画のムーブメント、日本の呼び名では「アメリカン・ニューシネマ」が起き、世界に影響を与えました。そして、そのようなリアルで暗い話に人々が飽きてきた頃、神話の構造をもろにふたたび映画に持ち込んでジャンル映画を復活させた作品が、『スター・ウォーズ エピソード4/新たなる希望』(77)です。
本作のシナリオを書くにあたって、ジョージ・ルーカスがアメリカの神話学者、ジョーゼフ・キャンベルによる著作「千の顔を持つ英雄」を参考にしたというのは有名な話です。この本をさらに映画用に整理し、使いやすくアレンジしたものが、クリストファー・ボグラーの「作家の旅 ライターズ・ジャーニー 神話の法則で読み解く物語の構造」です。本書は海外の映画製作スタジオや映画学校ではかなり読まれているようで、僕が映画会社に勤めていたときに、ブルガリアの国立映画大学の副学長が来社し、僕が応接したのですが、シナリオの先生だと聞いたので、教科書は何を使っているのですかと尋ねたところ、リンダ・シーガーの「Making a Good Script Great」(「ハリウッド・リライティング・バイブル」という名で出版されていましたが、絶版になっています)と前述の本を挙げられました。
構造において重要視すべきなのは、“差異”
余談ですが、映画評論家であり文学研究者でもある蓮實重彦は1989年に出版した「小説から遠く離れて」で、当時注目を集めていた小説は、構造から見れば、みんな同じだと論じました。村上春樹の「羊をめぐる冒険」も、村上龍の「コインロッカー・ベイビーズ」も、中上健次の「枯木灘」も、井上ひさしの「吉里吉里人」も、丸谷才一の「裏声で歌へ君が代」も、大江健三郎の「同時代ゲーム」も、<依頼>→<代行>→<出発>→<発見>というプロセスを持つ物語だというのです。こういう風に喝破するのはなかなかカッコいいですね。
僕もシナリオを教えている映像学校で真似をしてみようかと思い、神話学を応用しての構造解説をしようと企んだことがあります。が、結局やめました。動機が不純だと気がついたのです。神話学というアカデミックな権威に支えられて、あれとこれは似ていると教えて、「このような神話は、一般的に冥界訪問譚(katabasis)と呼ばれる」などと解説すれば、講義としては格好がつくでしょうが、実際にストーリーを書こうとする人たちにとって有益かというと、非常に疑わしい。
ジャンルを作った映画人も、神話学者も構造に普遍を見いだそうとします。構造は、普遍であり、普遍であるが故にポピュラリティにつながる。しかし、作り手や観客にとって重要なのは差異のほうです。先ほどのプロデューサーに「同じお話をくれ。ただし、ちょっとちがうものを」と言われたときに、ストーリーメーカーが頭を使うのは「ちょっとちがうもの」を考えること、つまり差異のアイディアを出すことになるのはまちがいありません。構造なんぞは映画を大量に観て、心のなかで大雑把に整理していけば、大体オーケー。問題は似ているけれども違うものについて思いをめぐらせることです。「炉前散語」では、これとあれは似ているという話をくり返しするとは思いますが、僕が語りたいのは、むしろ差異のほう、そしてその差異こそが個々の作品の個性を際立たせると考えるからです。
文/榎本 憲男
1959年生まれ、和歌山県出身。小説家、映画監督、脚本家、元銀座テアトル西友・テアトル新宿支配人。2011年に小説家、映画監督としてデビュー。近著には、「アガラ」(朝日新聞出版)、「サイケデリック・マウンテン」(早川書房)、「エアー3.0」(小学館)などがある。「エアー2.0」では、第18回大藪春彦賞の候補に選ばれた。映画『カメラを止めるな!』(17)では、シナリオ指導として作品に携わっている。

小説家・榎本憲男の炉前散語