笠井信輔アナが『ルックバック』を考察。傑作コンテンツを実写化する是枝裕和監督の“引き算の演出術”
藤本タツキの人気漫画を是枝裕和監督が映画化した『ルックバック』が公開中。漫画の腕に絶対の自信を持つ藤野(出口夏希)と、彼女に憧れを抱きながら圧倒的な画力を秘めた京本(蒔田彩珠)の成長と友情を描き出す。本稿では、無類の映画好きとして知られるフリーアナウンサーの笠井信輔による、『ルックバック』のレビューをネタバレなしでお届け。笠井アナは是枝監督の手腕をどう捉えたのか?
作品の肝とも言える、印象的なセリフがまるまるカットされていた…!
「ルックバック」がまたも成し遂げた!
藤本タツキ氏による漫画は「このマンガがすごい2022」オトコ編で第1位に輝き、アニメ映画は第48回日本アカデミー賞最優秀アニメーション作品賞を受賞。そして、是枝裕和監督が映画化した実写版『ルックバック』は、第83回ヴェネチア国際映画祭のコンペティション部門に選出された。残念ながら本選での受賞は逃したが、映画祭から独立した団体や審査員から贈られる5つの公式独立賞、「Cinema & Arts(シネマ&アーツ賞)」、「SIGNIS Award(シグニス賞)」、「CinemaSarà(チネマサラ)賞」、「UNIMEDAward(ユニメッド賞)」、「Fanheart3 Awards(ファンハート3賞)」を受賞した。スタンディングオベーションが12分を超えて続くほど、イタリアの観客からの熱狂的な支持。
日本の漫画として生まれた「ルックバック」は、“振り返る”どころか、世界へと羽ばたいたのだ。
試写の段階で、これはヨーロッパで評価されるだろうと感じていた。
漫画家を目指す藤野、不登校の京本。小学生の2人が出会い、協力し合って、「週刊少年ジャンプ」の漫画賞を目指す、十数年にわたる夢と努力と友情の物語だ。
ただし、私もネタバレ済み観客の一人。アニメも大ヒットし、かなり多くの観客がこの物語の衝撃的な展開を知っているという点で、この実写版は相当ハードルが高い。
しかし、実写版は筋がわかっているからこそ深い感動を味わえる作品になった。言ってみればシェイクスピア劇を楽しむかのような体験だった。
一方で、海外の観客は、まっさらな形で本作に向き合うことができるのだ。
なにも知らずにこのストーリーに触れる感動も想像に難くない。
では、あの作品を、原作漫画からどのように実写化したのか。ネタバレなしで進めていきたい。
アニメ版が原作漫画のカットの構図まで忠実に再現し完成度が高いなか、実写化で変えすぎると炎上しかねない。
しかし、そのままではアニメと一緒になってしまう。
ここで、監督が取り入れたのは、原作漫画からの大胆な“引き算の演出”と、予想を覆す“足し算の演出”であった。
漫画やアニメに触れた人ならばわかると思うが、「ルックバック」において、誰もが感じる、最も重要な心の琴線に触れるセリフがある。もちろんネタバレになるので、ここでは明かさない。
もしかすると、ファンはそのセリフを待っているかもしれない。
しかし!本作で最も肝となる印象的なセリフを、是枝監督は“まるまるカット”したのだ。
それは、この作品の核心ともいえるシーン。
テレビドラマだったら、このセリフは削らない。削らないのが常識だろう。
「スター・ウォーズ」で言えば、ダース・ベイダーの「私はお前の父だ」に反応するルーク・スカイウォーカーの「NOーー!」というセリフがないようなものなのだ。
しかし、劇場で観ている観客に対して、そこまで言わなくても絶対にわかるという、いや、わからせるという監督の自信が垣間見えた瞬間でもあり、そのカットがこの作品をより映画的なものに高めていた。
さらに、そのシーンに続いて漫画やアニメでかなり重要なシーンがあるのだが、監督はそれも描写せずに“音だけ”で表現している。
そのあとの展開を観客が受け止める上で極めて重要な行動なのだが、是枝監督はそれもあえて見せない。
あらためて思う。これは劇場映画なのだと。このシーンはテレビやネット配信では伝わらない可能性がある。
しかし、重要なセリフをカットし、それに続くシーンを見せないことが、かえって劇場の観客の想像力をかき立てているのは、紛うことなき事実。
でも、やっぱり、映画を見慣れていない人は少々混乱するだろう。しかし、手取り足取りすべてを手助けするテレビドラマと映画は違う。考えながら観るのも映画の醍醐味だと思う。ヴェネチアの観客はそこを楽しんでいる。
今回、監督のテーマとして、「語らないこと」「見せ切らないこと」があるのではないか。
キャラクターたちの心情を、一つ一つセリフにしない。
これが原作からの“引き算の演出”だ。
そして、その思考によってさらに本作を輝かせているのが、映像美である。
漫画やアニメにおいては、背景美術といったものが非常に重要であり、『ルックバック』も、不登校の小学生・京本が背景画に大変こだわり、天才的な画力を見せる。
是枝監督も、そこを意識して撮影されたと感じた。秋田県にかほ市の様々な四季の風景を、とても美しく捉えていて、それを挟むことによって、登場人物の心情が見えてくる。
さらにいうと、人物と風景を捉えた“引きの画”がすばらしい。風景からキャラクターの心情が見えてくるのだ。その美しい素朴な風景を見ていると、観客の心もどんどん豊かになっていく。
「新海誠監督だったら、このカット、絵にしたいだろうな」というような風景カットが、いくつもあった。
劇中、京本はスタジオジブリ作品などの美術監督として知られる男鹿和雄さんの風景画に惹かれるが、それこそジブリアニメの「人物と背景」の関係にも通じる「自然の中の人間」という映画的な構図がすばらしい。全編フィルムでの撮影も、もはや木村大作監督ぐらいのものかと思っていたが、それを選択した是枝監督と撮影の上野千蔵さんに、本作への相当なこだわりがあったと思われる。
『誰も知らない』(04)以降、生々しい人間の会話や自然な姿を映像に捉えてきた是枝監督が、その方向を維持しつつも、大胆に自然と向き合ったのがこの作品であり、作風が変わったとの印象を受けるかもしれないが、これは長編映画デビュー作『幻の光』(95)への原点回帰ともいえる。
あの作品も風景に情緒を感じ、風景の中の人物が非常に印象的だった。
こうした映像にかけるこだわりが、実写版『ルックバック』を大変魅力的なものにしている。
