衰え知らずの88歳!リドリー・スコットが『ラスト・サバイバー』で見せたエンタメ魂と“原作クラッシャー”の真骨頂
歳を重ねて行くと「未来を背負う若者たちにひと言残したい」的なメッセージ色の濃い映画、あるいは自己満足感を追求した作品を撮ってしまう監督はままいる。が、この11月で89歳を迎えるリドリー・スコットは違っていた。その最新作『ラスト・サバイバー』(公開中)は次から次へと危険が襲い掛かるサバイバルアクション。謎のパンデミックによって人類のほとんどが滅びた世界が舞台だとはいえ、そこに説教や教訓じみたものはほとんどない。生き延びるためにひたすら闘う者たちが描かれている!つまり、ちゃんとエンタテインメントしているのだ。
原作の「詩的な世界」から一転!サバイバルアクションへ大胆翻案
原作はピーター・ヘラーの同名小説。実際にコロナ禍が起きる前に書かれた終末SFで、単行本時の邦題は「いつかぼくが帰る場所」だった。映画公開に合わせて同タイトルに変更されたのだが、その内容は最初のタイトルのほうがふさわしい。アメリカでは「もっとも詩的なサバイバルガイド」というような美しい賛辞を受けてニューヨーク・タイムズのベストセラー小説にもなったからだ。
スコットが映画化するというので読んでいたのだが正直、これまでのスコット作品とはかけ離れた印象。「詩的」と言われる部分がある意味、青臭く、「ラスト・サバイバー」という邦題からはまるで異なる作風。果たしてスコットはこれをどう料理するのか? どこに魅力を感じて自らメガホンを取ったのか?などという疑問が次々とわいていたのだが、蓋を開けてびっくり。そんな原作とはまるで異なるサバイバルアクション映画になっていた!
いや、この翻案は凄すぎる。原作者がよく許したなレベル。その抒情的な文体が好きだった原作ファンだって戸惑うはずだ。原作小説の「詩的」な部分や青臭さはどこかに吹っ飛び、主人公チームvs略奪集団のバトルが繰り広げられる。もちろんスコットなので、その描写は容赦なく、血も飛び散れば頭だって吹っ飛ばされる。ホラー映画級の壮絶さ!もともと残酷描写も大好きな監督だが、88歳でこんな映像を撮れてしまうって一体…。噂によるとスコット、脚本が気に入ってメガホンを取ることを決め、原作は未読のままという説もあるのだが、映画を観るとそれが正解のような気がしてしまう。
バトルもヴァラエティに富んでいる。夜の襲撃では暗視カメラを通した映像、昼間はまるで『マッドマックス 怒りのデスロード』(15)の白塗り野郎たちことウォーボーイズのような連中がこれでもかと襲い掛かって、あたかも西部劇の騎兵隊vsネイティブアメリカンのようなアクション。流血&迫力満点だ。そんなバトルに身を投じる元軍人バングリー(ジョシュ・ブローリン)はこの状況を楽しんでいるとしか見えないが、相棒のパイロットのヒッグ(ジェイコブ・エロルディ)はいまを憂い希望を探したいと思っている。典型的な2つのタイプを並べて終末を考察しているのだ。
希望を捨てきれないヒッグはバングリーの元を離れセスナを駆って次なる土地へ向かい、そこでジャック(ガイ・ピアース)とシーマ(マーガレット・クアリー)の父子に出会い行動をともにする。この3人が出会うのが終末を象徴する“信仰”と“狂気”だ。
ヒッグは、かつて流れて来た航空無線の声がずっと気になっていて、それに導かれある空港に降り立つ。そこは別世界、人々が優雅に暮らす文明を感じさせる場所。3人が歓待を受けるなか、徐々に不穏な空気が拡がって行き、その元凶である女性、クラシカルなキャビンアテンダントの制服を着たダーリーン(アリソン・ジャネイが大怪演!)が現れる。
この無線の声に導かれるエピソードは原作にもあるが、スコットはまるで異なる解釈で映像化している。あたかもこのダーリーンを新興宗教の教祖のように描いたことで、本作の唯一の希望でもあるもうひとつの“宗教”が際立つ構成にしているのだ。それはヒッグが物資を届け続けている、心の安らぎを与えてくれるメリー派の集団。徹底した平和主義者として知られる彼らは緑のなかで、あたかも文明を拒否しているかのように生活している。ここでも対照的な信仰が描かれているのだ。
余談ながら、空港でヒッグたちがダーリーンと出会うラウンジのシーンは『シャイニング』(80)の幽霊たちのバーシーンを彷彿とさせる。深読みすれば、同作の幽霊バーテンダー役はジョー・ターケルで、彼はスコットの『ブレードランナー』(82)でレプリカントの生みの親、タイレル社長を演じていた。スコットはスタンリー・キューブリックのファンであり、このバーシーンのターケルが気に入って起用したんだった…そんなことを思い出させてくれる、オタク心をくすぐるシーンでもあるのだ。

