『花緑青が明ける日に』をクロスレビュー!森直人、SYO、数土直志、大島依提亜が“新世代の青春アニメ”の魅力を深掘り
“作品を提示する”美術家としての強い意気込み/大島依提亜
アニメーションは生身の人間が動く実写映画とは異なり、どんなイレギュラーな部分であっても画で表現することができる。だからこそ作り手は、観る側の“気持ち良さ”に合わせてテンポ感や時間の流れをコントロールする選択ができるはずなのに、なぜだかこの映画は観ているあいだ、妙な“居心地の悪さ”がありつづける。
立ち退きを迫られた花火工場の家のベランダでカオルとチッチが並んで話しているところにいきなり敬太郎が現れ、屋根や階段を飛び降りていく冒頭シーンに始まり、食い気味な会話や動きの激しいアクションが繰り返される。一定のテンポのなかでセリフを追って、ストーリーを咀嚼するというよくある“流れ”を拒絶するかのように、あえてアニメ的なリズムを外して観客を“ノレなく”させていく。そのためこちらは素直にストーリーを入れさせてくれないストレスを感じつつも、気付けば不思議な高揚感に包まれている。これが長編第1作という四宮監督は、それを意図していたのだろう。
そういった意味では、宮崎駿監督の『君たちはどう生きるか』(23)に似ているかもしれない。最近のアニメーションは、映画でもテレビでも作画から動きまで全部が完璧にコントロールされている。どれも宮崎さんの作品から端を発しているはずなのに、『君たちはどう生きるか』にはなぜか“抜けている画”が多い。おそらくそれは、すべてが綺麗な画と動きでできた緩急のないアニメーション表現へのアンチテーゼのようなものだ。弛緩しているところと緻密にこだわり抜いたところが顕著に見えているからこそ、後者が際立つ。
本作でそのような緩急を象徴的にあらわしていたのは、やはり終盤に訪れる花火のシーンだろう。ここでは一枚の画としてエモーショナルなものを成立させるのではなく、いろいろなショットのつながりやカット割りで全体像を見せるという難しさにチャレンジしていると見える。明解でわかりやすいカタルシスではなく、この妙にゆったりとしたクライマックスが選ばれるのはなかなかに独特で、日本画家で美術家でもある四宮監督の、“アニメを描く”のではなく“作品を提示する”のだという作家としての強い意気込みを感じることになる。
たとえばそれは、ある絵画が美術館のどこに置かれているのかという感覚にも近い。どんなに秀でた絵であっても、それ単体では魅力が伝わりきれない。展示してある美術展の全体の流れのなかで、どこに配置されているかを加味してはじめて見えてくるものがある。このような“クライマックスにふさわしい絵画を見せる演出”を、四宮監督は長編アニメという場を借りてやろうとしていたのではないだろうか。この花火の一連こそ、本作で一番作りたかったシーンに違いない。
リアリズムという意識に囚われることなく、時にはエモーションひとつで突っ走るところがあったり、普通の映画のような痛快さを拒んでみたり。『花緑青が明ける日に』は現代のアニメーション表現の“進化系”と呼べる作品だ。個人的には、美術系の学校に通う人や、歴史的なことを踏まえながら作品に当てはめていくのが好きな人がどう感じるのか興味が湧いた。美術の文脈のなかでこそ、本作の作品性をより深く読み解けることができるはずだ。(談)
国内外で活躍するimaseが歌う主題歌が、エンドロールに華を添える!
このように、どんな視点から観ても語らずにはいられない要素がたっぷりと詰め込まれた『花緑青が明ける日に』。エンドロールで流れる主題歌を担当しているのは、主人公たちと同世代のシンガーソングライターのimase。彼が歌うちょっぴりビターな楽曲「青葉」を聴けば、物語の余韻にひたれること間違いなしだ。是非とも是非とも映画館で“新世代の青春アニメーション”が放つ煌めきを受け止め、未来へと一歩進んでいくための活力にしてほしい。
構成・文/久保田 和馬

