“危険”なストーリー設定のもとで変則的に浮かび上がる、旅の本質『コンパートメントNo.6』【小説家・榎本憲男の炉前散語】
「なにかを見るため」という危険な物語設定
ラウラ(セイディ・ハーラ)はフィンランドからの留学生で、レズビアンでもあります。彼女は、指導教官であり恋人でもあるイリーナ(ディナーラ・ドルカーロワ)と付き合っています。この恋人に世界最北端の一般旅客駅ムルマンスクのペトログリフ(岩面彫刻だって)を見に行こうと誘われた。当人はそれほど見たくもなさそうなのですが、恋人があまりに素晴らしいと絶賛するのでとりあえず出発することに。なんにせよ、恋人と旅行に行くのは楽しいからという判断もあったのでしょうね。ところが推薦者当人はこの旅をドタキャンし、ラウラ独りが旅立つことになります。これほど「あんまりな」旅立ちを僕は映画では見たことがありません。
さらに、この映画の不思議で異質な点は、旅の目的地になにかがあるようでいて、ほとんどなにもない点なのです。もちろん、映画において、このような設定をするのは、かなりリスキーです。しかし、この徹底的に宙ぶらりんな状態に置くことによって、リアルな人間の存在を観客に実感させることが、狙いであるようにも受け取れるのです。
岩面彫刻とやらを素晴らしいと恋人が大絶賛するシーンが冒頭にあるのですが、「そうか、ならば是非見てみたいな」と観客は思うでしょうかね? はっきり言って「なんじゃそりゃ」というのが正直なところです。ヒロインだって、「見る、見てやるぞ、きっと素晴らしいものにちがいなかろうぞ」とは思っていなさそうで、「とりあえず行って見るしかないな」程度のノリで旅立ってしまう。ただ、ここで、観客の気持ちとヒロインのそれが見事にシンクロしていることも確かなのです。
ところで、旅の目的が「なにかを見るため」というのはなかなかヤバい設定です。こうした構造では、物語のラスト近くで主人公がそれを見たとき、主人公に何らかの変化がもたらされなければなりません。しかし、“何かを見たことによって起きる主人公の変化”は、物語の序盤においたほうがいい。それをきっかけに主人公に決定的な変化が訪れて、これまでの人生とはまったくちがう方向にコースアウトしていく。たとえば、『未知との遭遇』(77)や『ベルリン・天使の詩』(87)がそうであるかのように。これはある種の“感染”です。
静かなラストににじみ出る、旅の本質
とにもかくにもラウラは旅にでるためにシベリア鉄道に乗り込み、コンパートメント6号客室に入る。乗り合わせたのはロシア人の炭鉱労働者リョーハ(ユーリー・ボリソフ)。この男がやたらと粗暴でデリカシーに欠け、ラウラは嫌悪感を抱くものの、長い旅を続ける中でふたりの心が接近していく、というのは“お約束”ですが、問題はラストです。リョーハは労働者として働く、ラウラは岩面彫刻を見る、ふたりは旅の目的がまったくちがいます。
結論を先に言うと、ラウラはリョーハの助けを借りて、岩面彫刻を見ることができます。まあ、狩猟・漁労を営んでいた先史時代の人々が岩に掘ったものなので、行けば見られるわけです。で、彼女になにが起こったか。この映画を観る人によって解釈が異なるかもしれませんが、ここではなにも起らなかったのです。エピファニー(説明不要な啓示体験)は起きない。旅の目的地が当初予想していたものとはちがってショボかったというのは、ないことではないのですが、そのような劇的な肩透かしもない。
その岩面彫刻を見るシーン、
「終わり?」とリョーハは訊く。
「終わり」とラウラは応える
ものすごく淡白で、クライマックスのシーンとしてまったく機能してないところが逆に新鮮です。
しかし、彼女は変化している。シーンは突如として切り替わり、リョーハと猛吹雪の中を歩くシーンで、彼女の喜びが横溢します。この旅で彼女が得たものは、岩面彫刻という芸術ではなく、リョーハが車中で描いてくれたヘタクソな彼女の似顔絵だった。旅に出て、他者と出会い、それを受け入れる。彼女に起こった変化は、ドラマチックな演出ではなく、ごくごくおごそかに静かに語られる。この映画が観客を魅了するのは、変則的でいて、旅そのものの本質を描き出しているから――そんな気がしました。
文/榎本 憲男
1959年生まれ、和歌山県出身。小説家、映画監督、脚本家、元銀座テアトル西友・テアトル新宿支配人。2011年に小説家、映画監督としてデビュー。近著には、「アガラ」(朝日新聞出版)、「サイケデリック・マウンテン」(早川書房)、「エアー3.0」(小学館)などがある。「エアー2.0」では、第18回大藪春彦賞の候補に選ばれた。映画『カメラを止めるな!』(17)では、シナリオ指導として作品に携わっている。

小説家・榎本憲男の炉前散語
