岩井澤健治監督&魚豊が明かす、劇場アニメ『ひゃくえむ。』誕生裏話。漫画とアニメそれぞれの”恐れ”の描き方とは
「創作の際は常に漫画で最大化するような仕事を心がけます」(魚豊)
――魚豊先生は作品を生み出す時に映像化を意識されているのでしょうか。デビュー時の目標はアニメ化とおっしゃっていたという記事を拝見したことがあるのですが。
魚豊「メディアミックスされたら当然うれしいですが、僕は創作の際は常に漫画で最大化するような仕事を心がけます。現状、映像化を考えた前提の漫画作りはしていませんね」
――岩井澤監督が魚豊先生の描く『ひゃくえむ。』の世界で惹き込まれたポイントを教えてください。
岩井澤「『ひゃくえむ。』は映像にするのが本当に難しい作品です。100m、10秒。試合となると一番見せ場になるところが10秒で、しかも真っ直ぐに早く走るという究極にシンプルなスポーツです。見せ方が限られますよね。チームスポーツや球技であれば、見せ方のバリエーションを作れるのですが、それができないところが難しい。さらに、それぞれに信念を持ったキャラクターたちの言葉や対話が圧倒的に魅力的だけど、しゃべっているシーンの見せ方が本当に難しい。とにかく難しいことだらけだけど、それこそが作品の魅力で挑戦となるポイント。様々な難題をクリアすることが作品作りにおいての課題であり、やりがいでした」
――試合としては一瞬で終わるスポーツですが、オリンピックや世界陸上では多くの人が惹き込まれる花形種目である100m走。魚豊先生が100m走を題材にした作品作りに至った経緯をお聞かせください。
魚豊「僕は全然スポーツもやらないし、詳しくもなかったんですが、2016年にたまたま家のテレビにリオオリンピックが映っていて確か100m走の予選が行われていたんです。そこで2回のフライングで失格になっている選手がいて、『え?これで失格なの?』とビックリしました。スポーツに詳しくないからこそルールを知らなくて、いまのひと揺らぎでこの選手はあと10秒も走らせてもらえないことに驚きました。
今の揺らぎで次のオリンピックのチャンスは4年後なのか…とか、いやもしかしたらこの選手にとっては最後のオリンピックかもしれないと、いろいろな考えが湧いてきて。それがこの一瞬の数センチの揺らぎで終わり?と思ったら、めちゃくちゃ究極に緊張感が凝縮された世界、職業だと惹き込まれました。『一瞬』という単位で切り取ったら、この緊張感はどんな職業にも勝る、一番の世界なんじゃないかなと。これはすごいことなのではないか、と思い、作品にしてみたい気持ちになりました」
――たまたま観たスポーツが100m走でなかったら、別のスポーツを描いていた可能性もある。その選手がフライングをしなかったら、そこまで意識して観ることもなかったかもしれない。本当に偶然だったのですね。
魚豊「そうなんです。たまたま観て、めちゃくちゃ緊張感があることを知って。スタート前の静寂にはすごく驚きがありました。この人の人生がいまこの一瞬にかかっていること、さらにそこには言い訳できなさみたいなものが伴っている。ここまで研ぎ澄まされている職業はないだろうと思いました。もちろん生きてて100m走という競技はそれまでに目にする事はありましたが、フライングで失格という瞬間に遭遇しなかったら、驚きはなかったと思います。『そんな…』って気持ちになったのをいまでもよく覚えています」
――出来上がった映像を観た感想を教えてください。
魚豊「まずはやっぱり、絵が動いていることに喜びを感じましたし、加えて走り方がすごく細かく表現されていることに感動しました。ロトスコープだからこその表現なのですが、疲れているとか急に止まれないみたいなところって、漫画では表現しづらいので、そういうのが観られたことがすごく良かったです。あとは走る前の長回しのシーン。あれこそが100m走の一番おいしい瞬間だと思っています。スタートしてしまえば10秒で終わる。100m走自体はゲーム性など人間が解釈する限界を超えている短さだから、逆説的にそれに挑む前の準備段階や手順などにすごく意味が生まれます。選手が入場して来て、会場がざわついて、スタート位置に全員がついたら、徐々にざわめきが落ち着いて、やがて観客は息を呑んで一点を見つめる。張り詰めた静寂の中、選手と観客が緊張感を共有する感覚もあるし、邪魔しちゃいけない感じにもなる。10秒とか100mって"本番"が規定されているからこそ、その外の世界、本番以外の時間がとてつもなく意味を持って重要になってくるみたいな。この感覚が映画にも長回しで描かれていて、とても感銘を受けました」
岩井澤監督「すごくうれしい感想です。そこがまさに一番最初に作ったシーンです。シナハンをして構成などを考える前に、まずあのシーンが思い浮かび、『このシーンを描きたい!アニメーションにしたい!』と思ったのを覚えています。あのシーンだけで3分40秒あるのですが、1年間誰かしらが描いていました」
魚豊「1年…!!」
岩井澤監督「まるまる1年かけてやっと出来上がったシーン。それだけ作品の核になる部分なので、1年かけてやった甲斐がありました」