“誰かを生かすこと”の恩恵が、現代へ命のバトンをつないでいる…『わたしの知らない子どもたち』をレビュー

コラム

“誰かを生かすこと”の恩恵が、現代へ命のバトンをつないでいる…『わたしの知らない子どもたち』をレビュー

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戦争を題材にした〈戦争映画〉は、戦場や戦闘を描いた作品であるとは限らない。戦争に巻き込まれるのは、戦地に赴いた兵士だけでなく、その時代に翻弄された市井の人々も含まれるからだ。〈戦禍〉は老若男女に分け隔てなく、戦争が終わった後にまで及ぶもの。西川美和監督の『わたしの知らない子どもたち』(公開中)は、戦争孤児を題材に戦争による社会の混乱を〈子どもの視点〉や〈子どもの理屈〉で解釈させながら、〈戦禍〉を描いた戦争映画。

長くスポットライトが当たることのなかった“名もなき子ども”たち

【写真を見る】戦争孤児となった少女が戦後の日本を生き抜いていく姿を追う『わたしの知らない子どもたち』
【写真を見る】戦争孤児となった少女が戦後の日本を生き抜いていく姿を追う『わたしの知らない子どもたち』[c]2026 K2 Pictures・AOI Pro.

音楽家の父のもとで育ち、ごく普通の暮らしを送っていた12歳の琴子(小八重葵美)の人生は、1945年の終戦後一変する。戦争で家族を失った彼女は焼け野原となった東京で、たった一人生きることに。生きていくなかで女性であることが危険につながることを知った琴子は少年として生きることを決め、同じく家族や家を失くした少年たちと行動を共にする。彼らと支え合う日々に、琴子は自分の居場所を見いだすが…。

一方、琴子の担任教師だった曽根(二階堂ふみ)は、生徒を見捨ててしまった後悔を抱えながら生きていた。教師としての誇りも生きる意味すらも見失っていた曽根だったが、琴子の父の友人から「琴子を捜している」という手紙を受け取ったことをきっかけに、彼女を捜す旅に出る。旅を通して、曽根は人として生きる意味を取り戻していく。

少年として生きることを決意した琴子は、路上で暮らす将吉たちと行動を共にするように
少年として生きることを決意した琴子は、路上で暮らす将吉たちと行動を共にするように[c]2026 K2 Pictures・AOI Pro.

戦後、戦争孤児たちがどうやって生き延びたのか?という実態は、長く隠されてきた負の歴史がある。同時に、悲惨な経験に対する世間の偏見を当事者たちが恐れたことも伴って、長い沈黙を強いてきたという経緯もあった。金田茉莉のノンフィクション「かくされてきた戦争孤児」には、今作における琴子と同様に、疎開によって戦火を逃れたものの、東京にいた家族が空襲に巻き込まれ、孤児になってしまったという著者の壮絶な実体験が綴られている。戦後の日本に存在した約12万人もの戦争孤児たち。彼らは“名もなき子ども”として、無名の存在にされてきたという歴史もある。

これまでの西川監督作品に通ずる『わたしの知らない子どもたち』


西川監督は1974年生まれの広島市出身。つまりこの映画は、戦争を知らない世代が描いた〈戦禍〉であることも重要なのである。平和教育があまりにも身近だったため、彼女は「重々しいテーマから逃れていたい気持ちがあった」と述懐。だが奇しくも、確実にいたはずなのにいなかったことになっている戦争孤児たちの存在に対する“疑念”という感情が、彼女が映画で繰り返し描いてきたテーマと重なっているのである。

例えば、『蛇イチゴ』(03)における音信不通だった放蕩息子の存在や、幼なじみの女性を吊り橋から突き落としたという『ゆれる』(06)に登場する兄の証言。あるいは、村人たちから慕われながらも、実は医師免許を持っていなかった『ディア・ドクター』(09)の偽医者や、『夢売るふたり』(12)で結婚詐欺を繰り返す夫婦など。“疑念”をモチーフに人間のダークサイドを描きながら、過酷な現実のなかで“それでも強く生きてゆく”姿を作品のなかで提示してきたのだ。そういう意味でも『わたしの知らない子どもたち』は、西川美和監督作品らしさにあふれていると言えるだろう。

互いを支え合い日々を生き抜くなかで、強い絆で結ばれていく子どもたち
互いを支え合い日々を生き抜くなかで、強い絆で結ばれていく子どもたち[c]2026 K2 Pictures・AOI Pro.

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