『オデュッセイア』クリストファー・ノーラン流の解釈を考察!主人公、オデュッセウスは本当に英雄と呼ぶにふさわしいのか?
世界中の誰もが知る物語を自分の色に染めかえる、ノーランの挑戦
おもしろいのは、トロイア戦争のもう一人の英雄、ギリシャ軍の総大将、アガメムノンの扱い方だ。(ほぼ)顔を出さず、常にマスクを被った状態で登場させている。やはり英雄色をなくすための手法のひとつなのかもしれない。余談だが、アガメムノンは黄金のデスマスクで有名な人物。それで常にマスクを被らせたのか?なんて深読みもできないことはないのだが。
また、もうひとつ、キャスティングとして問題視されていたトロイア戦争の発端となったスパルタの絶世の美女、ヘレンをルピタ・ニョンゴに演じさせた点。筆者も観る前は疑問符だらけだったのだが、リアルを根幹においた本作では違和感が薄れていた。戦争の発端とは言及されるが、「絶世の美女」という説明はなされてない。
つまりノーランは、オリジナルをベースに自分の紡ぎたい物語にふさわしい世界観を創り上げて行ったのだ。それはファンタジー的なパートにも及んでいる。おなじみの一つ目の巨人ことサイクロプス(キュクロプス)のデザイン。レイ・ハリーハウゼンの『シンドバッド七回目の航海』(58)に登場するサイクロプスのデザインがスタンダードになっているのだが、ノーランのそれは鼻と目がいびつなかたちで配置されたスタイル。彼の感覚ではおそらく一種の異形であり奇形なのだろう。もう一人、オデッセウスの部下たちをブタに変えてしまう魔女キルケー(サマンサ・ノートン)の呪術は、呪文を唱えたりスティックを振ってブタにするのではなく、男たちへの不平不満をこぼしながら、彼らの顔を手でこねくり回して変身させるという表現。そもそもキルケーは絵画等からの印象では若い美女なのだが、本作では中年のおばさん。彼女の恨みのこもった悪態はその年齢だからこそだ。巨人たち(原作では風の神アイオロスの島の住人)もノーランは、大きな彼らに銀の甲冑を着せることでクリーチャー感、モンスター感を払拭。しかもこのシーンはとりわけ美しくミステリアスで、強烈な印象を残すエピソードになっている。
神話部分にもその創造は及んでいる。原作ではたびたび顔を出すギリシャ神話の神や女神も名前だけ。オデュッセウスを導いてくれる女神としてアテナ(ゼンデイヤ)が登場するが、ノーランの描き方だと彼の“夢の存在”にも見えてくる。もっとも有名な“トロイの木馬”もリアルにこだわった機能と大きさ。やはり徹底している。徹底して自分の物語にしようとしているのだ。
原作に忠実な部分ももちろんある。『オデュッセイア』は一つ目の巨人が出てきたり魔女が出てきたりで、その冒険譚が大半を占めているように思われがちだが、実は原作はオデュッセウスがイタケに隠密裏に帰国してからの攻防戦部分が意外なくらい長い。で、ノーラン版はちゃんと踏襲していて、2時間55分の後半1時間以上はそれに費やしている。乞食のような姿でかつての宮殿に戻って来たオデュッセウスが、そのボロ衣から短剣を取り出し相手を一撃で仕留めるシーンから、一気にテンションが上がりまくり。デイモンも突然、ジェイソン・ボーンに変身してアクション映画へとシフトする。音楽(『オッペンハイマー』などを手掛けたルドウィグ・ゴランソン)もドラムなのか、古代楽器なのかが効果的に使われたスリリングなサウンドで緊張感が加速する。こういうエンタテインメント的なサービスを欠かさないのもやはりノーラン。約3時間という長さにもかかわらず退屈とは無縁なのだ。
不満もないことはない。オデッセウスがその正体を現す“弓”のシーンが原作とは違う表現になっていた。ここはオデッセウスが一番、英雄として輝くシーンなのだが、ノーランの世界観からは外されてしまったようだ。
世界中の誰もが知る物語を自分の色に染めかえるというのはストーリーテラーとしては大きな挑戦に違いない。かつて、あのDCコミックスのスーパーヒーロー、“バットマン”を“ダークナイト”にしてしまったノーランだからこそできたのだ。すばらしいと思った。
文/渡辺麻紀

