押井守監督、新連載テーマは“ジャンル”を作ること!?「私には私のジャンルがある」【押井守連載「勝手にジャンル。」プロローグ】
「既存のジャンルを“再定義”することは意味がない」
――押井さんはかつてモーゼル・ミリタリーが使われている映画について語っていらっしゃいましたが、それも一つのジャンルということですよね?
「そうです。私には『モーゼル・ミリタリー』というジャンルがあるんです。モーゼル・ミリタリーが登場するなら観ようということになる。もう一つ、『ガバ(コルトガバメント)映画』というのも個人的にはあるよね。ガバがかっこよく使われていたら、私にとってはすごい映画だってことになる。ちなみに私がガバに目覚めたのは(サム・)ペキンパーの『ワイルドバンチ』(69)。西部劇にもかかわらずガバがかっこいいし、その使い方もすばらしい。『ワイルドバンチ』を普通に西部劇にジャンル分けする人がいる一方、私にとっては“ガバ映画”になる。自分のフェティッシュとしてのジャンルですよ」
――押井さん、再定義するというのではないんですね?「私にとっての青春映画とは?」ということではない?
「それは意味がないよ。再定義というのは新しい解釈をするだけで映画の本質には迫れません。『ガバ映画』とか『モーゼル・ミリタリー映画』は間違いなく映画の本質に触れているんです。なぜならフェティッシュというのが映画の本質にあるからです、間違いなく!それがジャンルとして様々な現れ方をする。そうなればちゃんと映画の本質に触れることになる。
つまり、映画の本質に迫る一つの手段として、自分固有のジャンルを作り出す必要があるということ。私にとっては『ガバ映画』と『アンジー・ディキンソン(の出演する)映画』は違うんです。どちらもフェティッシュだとはいえ、その現れ方が違うから。カッコいい銃を観たいというのとカッコいいおばさんを観たいというのは一見、似ているけど違う。私は銃にフロイト的なフェティッシュを刺激されたことはないけど、ディキンソンにはあるからですよ。その辺の違いをちゃんと言っておかないと誤解を生みそうでしょ?」
――押井さん、それだとジャンルがたくさんつくられそうじゃないですか?
「そうなるよね。いいんじゃないの?そのほうが自分の映画の観方の核心に迫りやすいでしょ。そもそも、それぞれの人が映画を選んでいる基準ってどこにあると思う?」
――人によって違うと思いますが、私の場合は監督でしょうか。『ビートルジュース』(88)が大好きだったから、ティム・バートンの映画なら観ようかという感じ。
「それは麻紀さんの成功体験から生まれた基準なんだよ。みんなそうやって映画を選んでいるんです。最近、よく聞く言葉で『原作どおりでよかった』というのがあるでしょ。あれも成功体験。原作のコミックがとてもよかったという成功体験を、その実写映画版やアニメ版で追体験したいだけ。監督にとっては原作をただコンバート(転換)しただけの作品なのに、世間の評価の多くは『この監督は原作に忠実でいい』になる。私は反対で、『原作者が激怒した』なんていう言葉を聞いたら興味津々だけど(笑)」
――そうでしょうね(笑)。
「私は(クリストファー・)ノーランの『ダークナイト』シリーズが大好きじゃない?なぜかというと、それまでのアメコミ映画とはまったく違う作品になっていたからだよ。彼はメジャー映画という定型のなかで、新しい映画を作り出した。これは商業監督としてもっとも正しい道なんです。オリジナルのストーリーでやるのは意味がない。みんなが知っているバットマンでやるからすごいんです。私もパトレイバーを使ってなにをやるかを考えていたから。一部には“原作クラッシャー”って言われちゃったけど!要するにジャンルの読み替えをしたわけです」
――(スティーヴン・)キングの原作はお化け屋敷&超能力ホラーなのに、映画版はサイコサスペンスにしちゃったキューブリックの『シャイニング』(80)みたいな感じですか?
「そうです。そもそも原作自体がなにかのパクリなんだから、そうやって映像化の時に読み替えるのは正しい行為なんです。読み替えこそがそもそもの本質といってもいい。表現の本質は読み替えであり、敢えて言うならパクリ。私が大好きな(ジャン=リュック・)ゴダール映画の本質も、引用です。引用を編集することで自分の作品にしている。映画や小説だけじゃなく、あらゆる表現はパクリだからね。私に言わせれば、監督の仕事は本歌取りであり読み替えること。だから、原作どおりならいい映画だというのはとんでもなく無知蒙昧な思考ですよ…。まあ、そっちがいまや主流なので、私が叫んだところでなんの変化もありませんけどね(笑)。」
