『勝手にしやがれ』はなぜ名作なのか?映画史にもたらした映像革命と『ヌーヴェルヴァーグ』における再解釈
「フランスとアメリカの往復運動」を象徴する『勝手にしやがれ』
『勝手にしやがれ』は同時にそれ自体がメタシネマ―露骨な“映画的引用”の集積でもある。ジャン=ポール・ベルモンドはハンフリー・ボガートを意識した佇まいで登場し、パトリシア役のジーン・セバーグはオットー・プレミンジャー監督『悲しみよこんにちは』(57)でのセシル役の演技をゴダールが観てオファーした。アメリカ映画をフランスで撮ったその作品は、フランソワーズ・サガン原作という点でも、ヌーヴェルヴァーグの特色だった「フランスとアメリカの往復運動」を象徴する。
さらに、フィルムノワールの名匠ジャン=ピエール・メルヴィルが著名作家役として出演し、ロベルト・ロッセリーニの『イタリア旅行』(53)からは「男と女と車が一台あれば映画ができる」という着想を得ている。『勝手にしやがれ』はB級ノワール映画のリミックスであり、映画そのものへのラブレターだった。
ヌーヴェルヴァーグの仲間たちの連帯は単なる協力ではない。互いの作品を批評し合い、刺激し合い、映画史における“若者革命”を実現した。トリュフォーは脚本と精神的支柱、シャブロルは製作面の支援、シフマンは現場の整理役、クタールは撮影の革新者として機能し、『勝手にしやがれ』は彼らの共同体の熱量がそのまま焼き付いた作品となった。
『勝手にしやがれ』が名作として語り継がれる理由
では、なぜ『勝手にしやがれ』は名作として語り継がれるのか。第一に、映画文法の刷新。ジャンプカットは編集の常識を覆し、映画が“つながらなくてもいい”ことを証明した。第二に、映画作家の自由の宣言。低予算・即興・街撮りによって、映画は巨大スタジオのものではなく若者の手に戻った。 第三に、新しい主人公像。ミシェルは道徳的ではないが魅力的で、軽やかで、映画的だった。観客は“正しさ”より“存在のおもしろさ”に惹かれるようになった。
その影響は世界中に広がった。編集の自由はスコセッシ、タランティーノ、ウォン・カーウァイらに受け継がれ、低予算映画の可能性はインディペンデント映画の精神を育て、物語よりも空気や会話、歩く姿を重視する軽やかさは、映画が“存在の記録”として成立し得ることを示した。とりわけウォン・カーウァイの『恋する惑星』(94)は、フェイ・ウォンのショートヘアとボーダーシャツのルックがジーン・セバーグのイメージを明確に参照し、B級ノワール的要素を混ぜ合わせることで、まさに“カーウァイ版『勝手にしやがれ』”を志向したことがうかがえる。
リンクレイターの新作『ヌーヴェルヴァーグ』は、この“自由の原点”を現代の視点で再解釈する試みだ。ゴダールたちがパリで火花を散らしたあの瞬間を、いま再び見つめ直すことに意味がある。『勝手にしやがれ』は、映画史の“革命の瞬間”を封じ込めた作品であり、新人監督ゴダールの無鉄砲さ、批評家としての知性、仲間たちの連帯、そして映画そのものの未来への跳躍が、60年以上経ったいまもなお観客の胸を軽やかに揺らし続けている。
文/森直人
