『黒牢城』への理解がより深まる!戦国の雄、荒木村重の謀反に至る経緯と悲劇
謀反は一族郎党皆殺しという結末に
しかし、信長を村重は裏切る。有岡城に立て籠もると、数万の信長軍を相手に約1年におよぶ籠城戦を決行する。これに対し、当初の信長は明智光秀ら使者を送って何度も説得を試みており、一度は村重も釈明のために安土城へ向かうが家臣からの反対にあって引き返したとされる。
この使者のなかには、『黒牢城』のもう一人の主人公、黒田官兵衛の名前も。通例として使者は送り返すかその場で斬り殺すのが武士の慣わしだったのだが、村重は官兵衛を生きたまま城の地下牢に監禁する。のちに救出されるまでの約1年、太陽の光も届かない、暗くじめじめとした場所につなぎ留められ続けた官兵衛は健康を害し、足が不自由になってしまった。
この籠城戦は消耗戦となり、高山右近、中川清秀ら重臣が信長陣営に凋落され、頼みにしていた毛利からの援軍が来ることもなく、万策尽きた村重は数名の家臣を引き連れ城主自ら脱出する。要を失った有岡城は陥落し、息子の荒木村次の尼崎城(もしくは花隈城とも)に入って抵抗を続ける村重に対して信長が再三の降伏を呼びかけるもこれに応じることはなく、最後は一族郎党皆殺しという結末を迎えてしまう。このことから村重は、妻子や家臣を見捨て生き延びた愚将として後世に語り継がれることになるのだ。
村重の謀反には様々な説が
村重はなぜ、無謀にも信長への謀反を選んだのか?その答えは現在もはっきりとわかっていない。一応、いくつかの仮説は立てられており、石山本願寺と戦っていた村重の部下たちが、密かに本願寺側に兵糧を横流ししていることが発覚し、信長からの処罰を怖れたという説、家柄よりも能力を重視する信長のもと、苛烈な成果主義の争いによる精神的プレッシャーに追い詰められたという説。また、当時の信長が毛利や本願寺、別所氏らに包囲されていたことから、そこに村重も加わることで打倒信長により近づく可能性に賭けたのでは?ともいわれている。
籠城戦の末に多くを失った村重だが、毛利へ亡命するなどなおもしぶとく生き延びた。世捨て人として生きることを決意し、自身の行いを恥じてか「荒木道糞」と名乗ったという。一方で、茶人となって堺の豪商、今井宗久の茶会に招かれたという記録も残っている。そして、本能寺の変で信長が討たれると、天下人となった豊臣秀吉のもとに現れ、名前を“道薫”と改め相談役として仕えたとされる。その後、秀吉からも去った村重は、堺で52年の生涯を終えている。
