生や死の先にある“無限の時間”を追い求めるジョシュ・サフディ監督。『マーティ・シュプリーム』までの道、ティモシーと弟ベニーについて【宇野維正の「映画のことは監督に訊け」】
「僕らはフォトコピーのフォトコピーの時代に生きていて、そこでは資本主義も、アメリカンドリームも、本来の意味や目的が失われています」(ジョシュ)
――そうですね。
「マーク・フィッシャーはまた、ジャック・デリダの憑在論という言葉を引用して、かつて存在した未来、あるいは存在したかもしれない未来が、現在の文化に幽霊のように取り憑いている状態こそが現代であると指摘してます。特定の過去を参照しようとすると、その過去がさらに参照していた過去に取り込まれて、時間のループの中に閉じ込められたような感覚になっていく。でも、きっとそこには一次ソースがあり、それはおそらくポップカルチャーが生まれた1950年代なんです。ロックンロールが誕生したのも、消費者としてのティーンエイジャーという概念が誕生したのも、その後も参照され続けているチャールズ&レイ・イームズ、ル・コルビュジエ、ブルータリズムのごく初期などのデザインや建築が生まれたも、全部50年代でした。その後、ベトナム戦争があって、不況がやってきて、そこにレーガンが登場して『50年代の良かった頃に戻ろう』と言いました。『Make America Great Again』も、もともとはレーガンの言葉です。だから、現在のアメリカ人は50年代のフォトコピー(複写)の中に生きているようなものなんです。80年代にはまだそこに現実味がありました。なぜなら、それは最初のフォトコピーだったので輪郭も色もまだそこまでボヤけてなかった。でも、2010年代になると、僕たちは50年代のフォトコピーだった80年代のさらに劣化したフォトコピーしか手にすることができませんでした。そして2020年代の現在、アメリカンドリームの効力はますます現実味を失っています」
――(『マーティ・シュプリーム』の音楽を担当している)ダニエル・ロパティンが、ワンオートリックス・ポイント・ネヴァーの音楽で表現していることにも通じる話ですね。
ジョシュ「そうですね。僕らはフォトコピーのフォトコピーの時代に生きていて、そこでは資本主義も、アメリカンドリームも、本来の意味や目的が失われています。『マーティ・シュプリーム』では、ダニエル(・ロパティン)による80年代風の音楽が亡霊のように劇中を彷徨ってます。ダニエルの音楽や、そこで使用した80年代のポップソングは、いわば未来からの『これが彼がかつて望んだ未来だ。でも、実際に彼が手に入れた未来はこれじゃなかった』という声なんです。僕たちはいつか夢を諦めますが、夢はそこで死んで消えるのではなく、亡霊のように残りの人生においても僕たちを追いかけてきます。この作品は、そのような感覚に全編が取り憑かれているのです」
――例えば80年代と比べて明確に変わったこととして、人々はみなスマホを手にし、タバコを吸わなくなりました。そういったディテールは、あなたにとってあまり大きな意味を持たない?
ジョシュ「いや、タバコを吸うのはまたクールなことになってますよ(笑)」
――私もそう思ってますが(笑)、それはそれとして人々の生活様式は大きく変わりましたよね。
ジョシュ「でも、80年代はみんなタバコを吸っていたのと同時に、健康やジョギングやジムでのワークアウトといった概念が始まった時代でもありました。いまではそれは当たり前のことになったし、ちょっと過剰すぎて狂気じみてさえいますよね。 僕が80年代に抱いている関心の中心にあるのは、やはり音楽です。テレビのニュースなどで使われているジングルは、実は80年代からほとんど変わっていません。また、いまのポップミュージックではどれも80年代のようなサウンドが鳴らされている。それは、80年代が真の意味で“モダン”だった最後の時代だったからだと思うのです。僕は80年代のそうした持続的な影響力に魅了され続けています」
「サフディ兄弟作品の特徴は『マーティ・シュプリーム』により直接的に引き継がれていて、ベニーは別のスタイルを探求しているように見えました」(宇野)
――確かに、ある時期では“80年代リバイバル”みたいな文脈でとらえられていましたが、実はリバイバルですらないことが明らかになってきましたよね。一方で、あなたとこれまでずっと一緒に映画を作っていた弟のベニー・サフディは、単独監督デビュー作の『スマッシング・マシーン』で90年代後半の格闘技の世界を舞台にしています。これまでのサフディ兄弟作品の特徴は『マーティ・シュプリーム』により直接的に引き継がれていて、ベニーは別のスタイルを探求しているように見えました。今後、もう兄弟で映画を作ることはないのでしょうか?
サフディ「未来がどうなるかを予測するのは難しいです。いま言えるのは、自分は自分の作りたかった映画を作っていて、弟は彼が作りたかった映画を作っているということです。僕はマーティ・リーズマン(実在の卓球選手)に着想を得たキャラクターを通して自分を表現したかったし、彼はマーク・ケアー(実在の格闘家)を通して自分を表現したかった。弟と一緒に仕事をしていた『アンカット・ダイヤモンド』までの作品でも、僕とベニーの間には異なる役割がありました。スクリーンに映っているもの、つまり観客が目にしている視覚的な要素の多くは、主に僕が担当していました。もちろん彼も関わっていましたが、実質的には僕の方がより深く入り込み、彼は視覚的ではないセクションにより深く関わっていました。 だから、次の映画を作る時が来たとき、僕は自然にこれまでの共同作業者である(撮影監督の)ダリウス・コンジや、(衣装デザインの)ミヤコ・ベリッツィのところへ行った。一方で、ベニーは新しい共同作業者と仕事をすることを望んだんです。なので、お互いの映画のDNAについてはなんとも言えません」
――『マーティ・シュプリーム』が完成した後、ベニーとは作品についてなにか話をしましたか?
サフディ「彼にはかなり早い段階で映画を見てもらいました。僕がずいぶん長い間取り組んでいた作品なので、もちろん彼はストーリーは知っていたわけですが、あの映画の中にある熱狂、エネルギー、クレイジーさに反応してくれて、信じられないような様子でした」
――ベニーの『スマッシング・マシーン』に、あなたはどういう印象を抱きましたか?
サフディ「あの作品のきっかけは、ドウェイン・ジョンソンが僕とベニーに連絡をくれて、2002年にHBOが制作したマーク・ケアーについてのドキュメンタリー映画『The Smashing Machine: The Life and Times of Extreme Fighter Mark Kerr』(『スマッシング・マシーン:マーク・ケアーの人生と戦い』)を送ってくれたことでした。暴力の容赦のなさや、依存症の容赦のなさを描いた素晴らしいドキュメンタリーで、ベニーはそのドキュメンタリーから受けた感動を自分の作品として再現したがっていました。ベニーの関心は、リアリズムの映像言語と語彙を通して映画を作ることです。一方、僕の関心はリアリズムをサブテキストとして使い、そこから表現としてハイパーリアルなものへと昇華させていくことです。時として、ハイパーリアリズムの方が、より真実に迫ることができます。なぜなら、それは感情により密接に結びついているからです。そして、上手くいけばそこに“熱狂”が生まれます。『マーティ・シュプリーム』は非常に熱狂的な映画だと思います。対して、『スマッシング・マシーン』はよりリアリスト的な映画です。でも、ベニーのアプローチは題材に相応しいものだと思います。僕は『スマッシング・マシーン』を観て、ベニーがマーク・ケアーというキャラクターを通じて自分を表現していることに気づき、もし一緒に作っていたら決してできなかった方法で彼を理解することができました。それは、僕たち2人が別々に映画を作ったことから得られた最高のことです」

