夢破れた革命家による、どこか保守的な再出発『ワン・バトル・アフター・アナザー』【小説家・榎本憲男の炉前散語】
陰謀論者の心理にも似たボブの言動
このへんで物語の説明に一区切りつけ、主人公の欲望に注目していきましょう。ボブが求めているのは自由だと僕は書きました。自由を得るために革命を目指しているわけです。けれど、革命後にどのような世界を構築するかというプランは彼の口から語られることはありません。かつて、労働者の自由と平等を実現するプランとして注目されていたのがマルクス主義でした。しかし、マルクス主義が現実に生み出した政治システムは自由を束縛するものだったのです。なので、このプランは駄目でしたという認識が現在では一般です(環境問題などを切り口に復権を唱える論者もいますが)。そして、ボブが革命を起こさないでも資本主義は加速して新自由主義となって、国境を曖昧にし、自由が世界に溢れるようになりました。では、隠遁生活をしているうちにボブが目指した世界は訪れたのでしょうか。そんなことはありません。
逃走の途中、ボブが電話口で、「リベラルのクソども」と悪態をついたり、フレンチ75のリーダーが無線で「億万長者どもが操るダボス会議」などと辛らつな言葉を発するシーンがあります。リベラルは自由主義者と訳されるのが一般ですし、ダボス会議(正式名は世界経済フォーラム年次総会)はグローバリゼーション、つまり、カネ・モノ・ヒトの国境を越えた自由な移動を前提にこれからの世界を経済人らが議論する国際会議です。これらにボブやボブの組織は悪罵を浴びせている。いまなお世界が間違っているのだと感じているからでしょう。そして、自分は明確なプランを語り得ないにせよ、少数の経済的エリートがこれからの世界を勝手に決めている(ダボス会議はボブの所属組織ではそう解釈されているのでしょう)と憤慨して殺意を抱くのは、陰謀論者の心理と非常に似ています。
身近な人間関係に自由の基盤を求めた革命家
さて、ここまで僕は意図的に、政治的な自由、経済的な自由、そして自分は自由だと感じられる感情的な自由を区別せずに一括りに“自由”と表現してきました。が、ここで、ボブが求めている自由がどんなものなのかを整理したいと思います。その際に参考にするのが、アイザイア・バーリンという政治思想家が提示した、“消極的自由”と“積極的自由”という概念です。以下、専門家には怒られるかもしれませんが、ものすごく簡単に書きます。消極的自由は「~からの自由」です。誰にも邪魔されずに自分のやりたいことをやれる自由です。それに対して、積極的自由は「~への自由」とでも言ったらいいでしょうか、なりたい自分に向かって前進していく自由です。グローバリゼーションで我々は消極的自由を手に入れたかのように思えます。また、消極的自由の推進がグローバリゼーションを生み出したのかもしれません。しかし、と同時に、それはグローバル企業や市場、資本、アルゴリズムといった非人格的な力が支配力を持つようになり、それらが人々の自由を奪っているような状況を生み出してはいないでしょうか。
この物語では、合言葉を言えるか言えないかが重要となるシーンがあります。合言葉を言えるものが仲間、言えないものはそうではない。つまり、仲間か仲間でないかは手続きで決まるわけです。これは共同体が大きくなると仕方がないことかもしれません。ロビン・ダンバーという人類学者によると、人間が仲間だと思える数は脳の構造上決まっており、その数は大体150人なのだそうです。そのような手続きを越えて、もういちど心で人と人とが結びつくには、自分の身近な人間との関係から再構築していくしかないのかもしれませんね。
かつての革命家が、もう一度、身近な人間関係のなかに自由の基盤を探そうとする。その意味で、この物語はきわめて保守的です。けれど、その保守性は、体制への迎合ではありません。世界を変えようとして失敗した者が、それでもなお他者と結びつこうとする、その不器用な試みです。夢破れたあとでまだなお生きるしかない革命家が、それでも自由を欲して、再出発する。そのような物語として、僕は『ワン・バトル・アフター・アナザー』を見ました。
文/榎本 憲男
1959年生まれ、和歌山県出身。小説家、映画監督、脚本家、元銀座テアトル西友・テアトル新宿支配人。2011年に小説家、映画監督としてデビュー。近著には、「アガラ」(朝日新聞出版)、「サイケデリック・マウンテン」(早川書房)、「エアー3.0」(小学館)などがある。「エアー2.0」では、第18回大藪春彦賞の候補に選ばれた。映画『カメラを止めるな!』(17)では、シナリオ指導として作品に携わっている。

小説家・榎本憲男の炉前散語
