人々が東野圭吾作品に魅了された理由とは?“やむにやまれぬ”事情を描く、ドライだけど登場人物それぞれの人生を見過ごさないこと
東野圭吾の描写が極めて映像的だった「真夏の方程式」
膨大かつ多岐にわたる作品群から具体例を挙げることはためらわれるが、第48回吉川英治文学賞に輝き映画化もされた「祈りの幕が下りる時」には、娘のために亡霊として生きる父親が登場する。秘密を護るためには“そうするしかなかった”と体感させる人物像の造形と筆致の深度。
なぜ映像化が多かったのか。さらに具体的に考えるなら、東野の描写が極めて映像的であることに行き当たる。小説「真夏の方程式」と映画『真夏の方程式』(13)を較べてみよう。キーパーソンであり物語の主人公でもある少年、柄崎恭平が、生まれて初めての一人旅で伯父と伯母が営む海岸町の旅館に向かう電車内で“ガリレオ”こと湯川学と出逢う。
この序章が、単に詳細というより、読み手の情感を“開発”する映像性に満ちており、さらに流れている。映像において重要なのは、この流れる感覚であり、若い頃は映画監督になることも夢想したという東野には、そのセンスが宿っているのだろう。つまり東野の小説は、映像を誘発するのだ。映画版の監督は福山の「ガリレオ」シリーズを永らく務める西谷弘だが、小説を読んだ時の印象が鮮やかに可視化されていて、そのことに感動する。
さらにラストシーン。今度は駅舎での恭平と湯川の別れの場面だが、小説の次の台詞が使われ、福山が万感の名演を見せる。
「今回のことで君が何らかの答えを出せる日まで、私は君と一緒に同じ問題を抱え、悩み続けよう。忘れないでほしい。君はひとりぼっちじゃない」
映画の完成後、東野圭吾と福山雅治の対談に立ち会う機会があった。東野は、ある時から福山の声を思い浮かべながら「ガリレオ」を書いている、と微笑んだ。
忘れないでほしい。君はひとりぼっちじゃない――これは、稀代の小説家から、私たち読者に贈る言葉でもあるように思う。
文/相田冬二
