アイドルを“リアルな人間”として描くことに成功した深田晃司監督『恋愛裁判』。その映画的思考と人生観【宇野維正の「映画のことは監督に訊け」】
「リアリティラインに観客が引っかかりを覚えるような作品だと、どうしても動員にも天井があるんじゃないかって」(宇野)
――最初に自分が「誰が観ても問答無用におもしろい」と『恋愛裁判』を評した理由の一つは、これまでの深田作品の中でも、特にリアリズム度が高い、そこを重視している作品だと思ったからなんです。それはアイドルの描写だけじゃなくて、その背景に映っている社会であったり、登場人物たちの心の動きであったりも、もちろん含めてのことですけど。特に日本の実写映画って、エンターテインメント性とリアリズムの度合いが密接に結びついていると自分は常々思っていて。
深田「ああ、はいはい」
――あからさまにファンタジー的な世界を描いたジャンル映画は別として、そこで観客が引っかかりを覚えるような作品だと、どうしても動員にも天井があるんじゃないかって。だから、多くのインディー映画やそれに類する予算規模の作品が不利なのも、キャスティングや宣伝の問題だけじゃなくて、ある程度のリアリティを担保した上で描ける範囲が限られているからなんじゃないかって。
深田「製作費とか製作期間とかの制約ですね」
――はい。今回の『恋愛裁判』はその問題をクリアしているわけですが、それによってリアリズムに近づきたくても近づけてない作品も少なくないじゃないですか。なので、深田監督が考える映画におけるリアリズムというのを、本作を糸口にちょっと広げてお伺いしたいなと。
深田「映画にとってのリアルってすごくおもしろいテーマだと思っていて。例えば、俳優の演技で“リアルな演技”って言い方をすることがありますけど、自分はある種のナチュラルさみたいなものを、まず前提として俳優の演技に求めているんですね」
――わかります。
深田「でも、ナチュラルだったらリアルであるかっていうと実は違ったりしていて。ドキュメンタリー映画のようにナチュラルな芝居が、映画的にリアルであるか、映画的におもしろいかっていうと、そこは必ずしもイコールではなかったりする。一方、例えばアキ・カウリスマキ作品の俳優の芝居なんて、ナチュラルかといったらまったくナチュラルじゃない。 あんなにしゃべらなくて、あんなに能面みたいで。でも、リアルじゃないかといったら、あれがすごくリアルに感じるっていうところが、映画のリアリズムのおもしろさだと思っていて」
――なるほど。
深田「つまり、現実っぽいからといって、必ずしもリアルっぽくはならないってところなんですよね。それに、作品が描いてるテーマとか扱ってる題材とか全体のトーンとかによって、何がリアルかというのも変わっていく。――あの、自分、宮崎駿信者なんで、宮崎駿について語り始めたら一晩でも語れちゃうんですけど(笑)。『天空の城ラピュタ』のリアリティラインはどこにあるのかという話を、宮崎駿がしていたのをよく思い出すんですけど。 『天空の城ラピュタ』なんて、まあ荒唐無稽な冒険活劇で、フラップターとか飛行石とか、ああいう科学と魔法が入り混じった、まったくファンタジーの世界なんだけど、でも私たちはあの作品にリアルを感じる。 一つは、ちゃんと宮崎駿が重力を描いてるってところなんですよね。 アニメーションだけど、シータが降りてきて、パズーが受け止めた時にグッと体重が戻って落ちそうになる。そうやってちゃんと重力を描いてるところが、あの映画のリアリティラインの根幹になってると思うんですけど、まあ、それは自分が勝手に思っただけで」
――あ、それは深田監督の考えなんですね(笑)。
深田「はい(笑)。宮崎駿があの作品のリアリティラインとして語っていたのが、あの世界にはフラップターもあるし、飛行石も出てくるけど、パズーが自分の家で飛行船を自分で作っていましたよね。あんな少年一人が、本来は作れるわけがないっていう。だから、もしラストシーンであれを飛ばしてしまったら、途端にあの映画のリアリティラインってのは崩壊するんだっていう。だから、飛行石とかフラップターがあるからリアルじゃないっていうことじゃなくて、あそこで少年一人が作った飛行機を飛ばすか飛ばさないかっていうところで、あの作品のリアリティラインが決まってくるんだ、みたいな話をしていて」
――うんうん。
深田「多分それと同じように、作品によってリアリティラインをどこに持ってくるかっていうのは、作り手の考え方次第で。『恋愛裁判』の場合、倉悠貴さんが演じてくれた敬というキャラクター、彼が映画史的にいろんな歴史を背負ってきた大道芸人であるということが、一つの重要なポイントになっていて。彼がいることで、特に前半は、恋愛ドラマとして主観と客観がある程度入り混じった表現が許されているんですね」
――ああ、なるほど!確かに前半と後半で作品のトーンが変化しますが。ただ、大道芸のシーン以外は前半からすごくリアルだなって思って見てましたけど。真衣と敬の感情の動きとかも含めて。
深田「そう感じていただけたのはありがたいんですけど、『恋愛裁判』では前半と後半で、ちょっとリアリティラインが変動しているんですよ。前半で、敬の大道芸のシーンを筆頭に比較的リアリティラインを下げつつ、でも後半の法廷劇になってからはグッとそのラインを上げていくという」
――リアリズムの度合いは、一つの作品の中でも、作り手のコントロール次第で変動可能だということですね。
深田「そうです。多分、そこの落差がこの作品においては大事だったのかなと思っています。どんなにリアリズムを突き詰めても、現実と映画はイコールでは結べないので。やっぱり映画の世界というのは、何もないところから、映画的な文法の中でリアルなものを再構築しているわけです。映画的な文法の中で許されるか許されないかというのが、自分にとっては大事なところで。前半のファンタジー的な演出のシーンは、あそこまでのものを自分もこれまでやったことがなかったから、多少ドキドキしながら『これ大丈夫かな』って思いながら手探りでやっていった感じではあるんですけど」
――いや、あのシーンで一気に作品に引き込まれましたし、あれこそがこの作品が映画である意味だったなって、改めて思いました。たまたま宮崎駿の話も出ましたけど、まさにあそこも重力に関する演出ですしね。
深田「観客としては、基本雑食性なんで、どんなものでも観るんですけど、いわゆる“クソリアリズム”的な作品はあんまり好きじゃないですね。 なんかもう、現実をそのまま生き写したみたいな感じのものよりは、やっぱり映画の文法の中でリアルを再構築してくれてるような作品のほうが、楽しんで観る傾向はあります。それこそで自分がよく一番好きだって挙げてるエリック・ロメールの作品でさえ、単純なリアリズムとは遠いと思っていて、本当に何も起きない現実的な会話劇であっても、やっぱりそこはものすごいレベルで、映画の文法の中で再構築された現実世界であるっていう感じがあって。多分、それが作家の視点であると思ってます。ものすごく緻密に描かれた写実主義の絵画って、驚きはするけど、それだけではあまり感動はしないっていう。 それよりも、全然写実的なリアリズムじゃないゴッホの絵になんで人が感動してしまうのか?みたいなところで、もちろん写実主義っていうのも一つの技術だし、それも表現ではあるんですけど、ただそこを突き詰めるだけだと、驚きがあってもなかなか感動は生まれないのかなという気がします」
――それはすごくわかるんですけど、映画の文法というところを離れて物語的なところでいうと、やはり日本の観客、特に実写日本映画の観客は、いわゆるリアリズムが好きだよなあという思いはあります。
深田「でも、恋人や奥さんが病気になって死んでしまって悲しくみんなが泣けるような映画は、リアルだけど、リアルなのかな?と思っちゃうけど(笑)」
――確かに。自分がここで言いたいのは、『恋愛裁判』はリアリズムの度合いが高いこともあって、これまで深田作品を観たことがなかった新しい観客を獲得できるんじゃないかという話なので、特に意見の対立点はないんですけど(笑)。ただ、ずっと自分がよく思っているのは、いわゆるシネフィルと言われる人たちは、そこをあんまり気にしなすぎだよねっていう。
深田 「ああ、それはわかります。確かに、それは問題としてあると思っていて、自分自身が多分シネフィルとして生きてきた人間なんです。特に十代の時に」
――雑食、でもベースはシネフィルってことですよね。
深田「そうです。山田宏一さんの本とかに出てくる映画を片っ端から観るみたいな感じで、基本観ている映画の8割は自分の生まれる前の映画、みたいな人生を歩んできたので。で、そこがシネフィルの危ういところで。映画の歴史的な蓄積とか、いわゆる映画的な文法——“映画的”っていう言葉自体がある種の危うさを持っているんですが——その映画的と呼ばれるのは、ややもすると過去の“記号”でもあるわけで。 あの映画でこういうふうに描かれたとか、こういうふうに車が走ったとか、そういうことの組み合わせで自分の中に“いい映画”の価値観を作り出してしまうわけですけど、それが表象主義と言われたりもして、画面に映っているものだけを観るようになっていく」
――はい。
深田「そうすると、映画の見方がどんどん記号的になっていくというか、運動とかショットとかばかりを観てしまうんだけど、そこだけで映画を語ったり作ったりすることの閉塞感みたいなものを自分自身がどうしようもなく感じるようになってきてしまって。シネフィルでありながら、そこに自己嫌悪も覚えるみたいな感じですね。だから、なるべくそこから逆のほうに離れていこう、みたいな意識も同時に結構強くあった20代、30代だったっていう感じです」

