“不快さ”をエンタメにするアリ・アスターの強い意志。『エディントンへようこそ』の狙いとその達成【宇野維正の「映画のことは監督に訊け」】
「テッドもジョーも、きっと本人たちが考えているほどの大きな違いはないということ」(アリ・アスター)
——一般的には、『エディントンへようこそ』はダークコメディ的な作品と捉えられているように思いますが、自分はかなりシリアスな作品だと思ったんですね。本作のコメディ要素の匙加減について、どういう考えを経てこのバランスに行き着いたのでしょうか?
アスター「自分としては、この作品を強めの社会風刺を含んだダークコメディとして見てほしいと思っています。笑えるけれど、きっとその笑いは喉の奥に何かが引っかかるようなものになるはずです。かなり挑発的な作品ですからね。そして最終的には、あなたの言うようにかなりシリアスな問いを投げかけた作品でもあります。重要なのは、それが“答え”ではなく“問いかけ”であるということです。なぜなら、私自身が明確な答えを持っているわけではないので。この作品にはたくさんの“問いかけ”がありますが、なかでも大きな“問いかけ”は、『私たちはこの道をこのまま進みたいのか?』ということ。そして、『この社会の変化のスピードをいっそう加速させたいのか?』ということだと思います」
——デリケートな質問だというのは承知の上で、この作品の政治的なバランスについても少し訊かせてください。作品が始まって少なくとも1時間半くらい、つまりホアキン・フェニックス演じるジョーが明白な犯罪を犯すまでは、自分はジョーにかなり共感して物語にのめり込んでしまったんですね。それは、この作品の脚本を書いて、監督をしている、あなた自身がまさにジョーと一体化しているからでもあると思うのですが、それは見当違いな意見でしょうか?
アスター「僕がジョーに惹かれるとしたら、それは政治的なスタンスではなく、単純に彼のことをおもしろい人物だと思うからです。つまり、キャラクターとしては自分にも共感できる部分がたくさんあります。ただ、彼の政治的な考えは僕とは違います。僕にとって大事だったのは、彼のことを一方的に賞賛したり一方的に批判したりせず、そこに人間性を見出すことでした。彼は妻を愛している人物です。妻のことを完全には理解していないけれど、愛しているし、自分の仕事も大切にしている。自分が住んでいるこの世界のことも気にかけている。でも、彼の世界に対する見方はすごく狭いんです。この映画は、観客がまず彼に共感するように作られています。そして、そこからその共感が裏切られるような仕組みになっているんです」
——まんまとあなたの術中にはまってしまったわけですね(笑)。
アスター「(笑)」
——とはいえ、あなたはテッドよりはジョーに政治的立場が近いんじゃないかとも思ったんですが。
アスター「テッドはその職業からもわかるように典型的な政治家タイプ、つまりは計算高い人間で、偽善者です。一方、ジョーは自分の意図や考えに関して、テッドよりは正直に語る傾向がある。でも、結局のところジョーも偽善者であることが明らかになります。僕がこの映画で描きたかったのは、テッドもジョーも、きっと本人たちが考えているほどの大きな違いはないということです」
——なるほど。ペドロ・パスカルは政治的な意見を表明し、そこでアクションもしているアクターの一人ですが、彼はテッドというキャラクターの描き方について何か意見を言ったりはしなかったんですか?
アスター「まあ、すべては脚本に書かれていたことですし、プロフェッショナルな役者なので、オファーを受けてくれた段階で自分が演じるキャラクターについては納得していたはずです。確かにテッドは計算高い人物ですが、多くの痛みを抱えている複雑な男でもあります。妻との過去や、息子とのぎくしゃくした関係、とても脆い自尊心――こうした要素をペドロと掘り下げて議論するのはとても楽しい作業でした。それはホアキンとの作業も同様です。ホアキンとは、とにかくジョーができるだけ複雑な人物になるように一緒に考えました。ジョーは多くの面で道化師のような存在ですが、まぎれもなく人間的なんです。ジョーにはすごくユーモラスな側面があって、ホアキンはすぐにそのことを見抜いてくれました。そして、ホアキンにとっても、ペドロにとっても、自分が一番重要だと考えていたのは、それぞれのキャラクターを特定の価値観や思想でジャッジしないということでした。彼らはそのことにとても深い理解がありました」
——ラップミュージックでよく使われる言葉で、1曲の中で急に曲調が変わることを”ビートチェンジ”と言いますが、あなたの作品が現代的な作品である理由の一つは、その“ビートチェンジ”にあると思うんですね。先ほども『ミッドサマー』のスウェーデンに舞台が移る前の序盤のシークエンスの話をしましたが、あの作品では終盤にももう一段階作品の“ビート”が変わる展開があります。『ヘレディタリー』も、そして今回の『エディントンへようこそ』も、ある出来事をきっかけにしてまるでビートがチェンジするように作品のトーンが変わっていきます。
アスター「それはいい喩えですね。僕自身、映画にどこに連れて行かれるのかわからなくなる瞬間が好きです。映画が安全なものではなくなって、観客が足元をすくわれたような気持ちになる瞬間にこそ、映画の興奮があると思っています。もしすべてが予想どおりに進むなら――正直言って、特にハリウッド映画の多くはそうなんですが――すごく退屈に感じますし、ちょっとした憤りすら覚えます。映画の製作費は非常に高価で、作るのに長い時間と多くの労力もかかります。なのに、ただお決まりの展開を踏むだけの作品を作る意味はあるのかと疑問に思います。僕にとって大事なのは、観客の予想や期待を裏切ることです。必ずしも観客が望むものを与えるわけではなく、その代わりに別の何かを与える。そうすることで、作品を観た後に考える余地を与えたり、咀嚼するための材料を提供できると思ってます」
——予測不能なストーリーテリングについては、かなり意識的に取り組んでいるということですね。
アスター「はい。だからこそ、僕の映画は2回以上観ることが必要になることもあるんです。観客の期待を覆すように設計しているので、2度観ることで初めて完全に理解できるポイントがあります。特に『エディントンへようこそ』のような映画は、ちょっと複雑に作られていて、特に作品の前半では僕自身の信念や映画制作者としての信念を観客に向けて問いかけるように作ってます。いまの世界では、みんな一方的にメッセージを押しつけてくるので、自分でメッセージを掘り下げて、探す経験のほうが、よりおもしろいと思うんです。

