“不快さ”をエンタメにするアリ・アスターの強い意志。『エディントンへようこそ』の狙いとその達成【宇野維正の「映画のことは監督に訊け」】
もしかしたら、現在40歳未満の海外の映画監督の中で、アリ・アスターは日本で最も知名度のある監督かもしれない。その理由ははっきりしていて、一つはシンプルに『ヘレディタリー/継承』(18)、『ミッドサマー』(19)、『ボーはおそれている』(23)とこれまで撮ってきた3作品がいずれも優れた作品であるだけなく、観客の印象に強く残る作家性が刻印された作品であること。もう一つは、当たり前と思われるかもしれないが実は日本の“洋画”環境で損なわれつつある「これまですべての長編作品が国内で劇場公開されてきた」監督であり、さらにレアなことに、『ミッドサマー』以降、今作『エディントンへようこそ』まで3作連続してプロモーション来日をしている監督であることだ。
今回の対面インタビューも、そうした取材に関する好条件を背景に実現したものであることは言うまでもない。その代償として、インタビュー自体のレア度は低くなるわけだが、彼の作品の編集におけるセオリーや撮影に対する考え方についてしっかり言語化したテキストとしてレアなものになることを心がけた(他のインタビュアーが訊きそうにない質問だけをするというのは、連続して取材をこなす監督の集中力を維持してもらうためにも必要だったりする)。
2025年のアメリカ映画を振り返った時、『エディントンへようこそ』は現代劇として共通するモチーフも少なくない、既に主要アワードを席巻しつつあるポール・トーマス・アンダーソンの『ワン・バトル・アフター・アナザー』と同じくらい重要な作品として記憶されるべき作品だと自分は考えている。冒頭で「40歳未満」と書いたようにアリ・アスターはまだ39歳。すでに巨匠ポジションを築き上げているポール・トーマス・アンダーソンや、『エディントンへようこそ』の主演にして、その両監督の作品で監督の分身的な役を演じることも多い名優ホアキン・フェニックスの世代と違って、キャリア的にもまだまだアメリカという国の現実に向き合って生きていかなければならない世代であり、無責任に子供世代(≒Z世代)へと希望を託すには若すぎる世代だ。
インタビューで印象に残ったのは「現在の多くの映画作家が、かつてのように自分たちが生きているこの社会を強く反映させた映画を作ることを避けているのは、端的に、それが不快だからだ」という発言。ワーナー売却でいよいよ本格化するであろうハリウッドの終焉と、そこにも強い影響を及ぼしている第二期トランプ政権。とりわけアメリカの映画界では蛇蝎の如く嫌われているAIの問題。ますます“不快”さが天井知らずに高まりつつあるこの世界で、一貫して“不快”なことばかりを映画というアートフォームの力でエンターテインメントとして昇華させてきたアリ・アスターの役割は、今後さらに重要なものになっていく予感がする。
※本記事は、ストーリーの核心に触れる記述を含みます。
「どうしてもっと多くの映画監督が、本当にいまの社会で起きていることについての映画を作らないのか不思議に思っています」(アリ・アスター)
——2018年にあなたの長編デビュー作『ヘレディタリー/継承』を試写で観て度肝を抜かれた直後、あなたのアカウントをTwitter(現X)でフォローしたんです。すると、あなたはすぐにフォローバックしてくれました。その後も数年間、あなたがフォローしてる唯一の日本人が自分だったのですが、コロナ禍に入ってしばらくした頃にあなたはアカウントを消しましたよね。
アリ・アスター監督(以下、アスター)「あのころは、ソーシャルメディアがますます有害なものになっていると感じてました。特にTwitterは顕著でしたね。精神的にも良い影響はまったくなく、そこから得られる前向きなものもありませんでした。いつからか、ソーシャルメディアは人に不安を生みだし増幅させるだけの存在になってしまいました」
——あなただけじゃなく、他の多くの監督もここ数年でソーシャルメディアからいなくなりました。映画監督とソーシャルメディアというのは、あまり相性の良いものじゃないないのかもしれませんね。
アスター「おそらくね」
——2020年の新型コロナウイルスのパンデミック期を舞台にした『エディントンへようこそ』は、ハリウッド映画が初めて2020年代のアメリカの政治や社会やソーシャルメディアの問題をメタファーではなく、真正面からリアルに描いた作品だと思いました。正直、あなたの新作がこういう作品になるとは予想してなかったので、そのことに驚きました。そこで訊きたいのは——。
アスター「どうしてあなたは僕が『エディントンへようこそ』のような映画を作るとは予想してなかったんですか? まずはそれを訊いてみたいですね」
——前々作『ミッドサマー』、そして前作『ボーはおそれている』と、あなたの作風が徐々に内省的になってきていることが気になっていたんです。
アスター「内省的?」
——幻想的と言い換えてもいいかもしれません。一方、今回の『エディントンへようこそ』はとてもリアリズムに寄った作品で。自分があなたの作品で特に好きなのは、『ミッドサマー』の序盤、アメリカからスウェーデンに行くまでの、あの救いがなくて意地の悪い20数分のシークエンスなんですね。『エディントンへようこそ』はあの序盤のトーンが最後まで続くような作品で、まずはそのことにとても興奮しました。
アスター「なるほど。質問を続けてください」
——(苦笑)。まず訊きたいのは、どうしてあなたはこのようなアメリカの現在を真正面から描いた作品を作ろうとしたのか、そして作ることができたのかということで。逆に言うと、現代の他の優れた映画監督たちはどうして現代社会を真正面から描けず、過去の世界や架空の世界を舞台にした作品を作っているのだと思いますか?
アスター「僕自身、どうしてもっと多くの映画監督が、本当にいまの社会で起きていることについての映画を作らないのか不思議に思っています。もちろん、現代を舞台にした映画はたくさんありますが、登場人物がスマートフォンを使っていても、その深刻な依存ぶりや、それを取り巻く新しいシステムの息苦しさまでを作品から感じることはあまりないです。単に生活の道具、舞台背景の一部として存在している。でも、私はあの装置が私たちの生活とどれほど深く結びついているかを強調したかったんです」
「あなたは明確にスマートフォンをかつての銃のように描いてますよね」(宇野)
——スマートフォン以前、以降で世界はこんなに変わってしまったのに、多くの映画作家はそれに気づいていないふりをしているということですね。
アスター「現在の多くの映画作家が、かつてのように自分たちが生きているこの社会を強く反映させた映画を作ることを避けているのは、端的に、それが不快だからだと思います。それに、いまは世の中の変化のスピードがあまりにも速すぎる。ニュースのサイクルを見ていても、一日のうちに情勢が正反対なものに変わってしまう。そこでは何かをじっくりと消化する暇がないんです。新型コロナウイルスのパンデミックについての映画があまり作られていないのも、私たちが2020年に起こったことをまだちゃんと消化できていないからでしょう。むしろ、2020年に始まったあの出来事の影響は、いまだに続いていて、悪化しているとさえ言える。だから、人はその不快な現実から目を背けて、ノスタルジアに逃げたくなるんです。懐古主義に走ったり、あるいは寓話的に過去や未来の世界に逃避して、そこに“現在と似たような状況”を作り出して、間接的にそこから何かを見出そうとする。でも、現実として私たちはいま、いままでにない瞬間を生きています。他の時代との歴史的な類似点はあったとしても、私たちが生きているこの時代はかなりユニークなもの、歴史の特異点と言える時代だと思うんです。特にテクノロジーとの関係性においてはそうですね。私たちはいま、テクノロジーが『私たちのために働いてくれる』のか、それとも『私たちに逆らって働く』のか、それが決定してしまう直前の分岐点にいるのです」
——自分はこの映画を現代を舞台にした西部劇だと思っているのですが、そこであなたは明確にスマートフォンをかつての銃のように描いてますよね。多くの映画作家が現代を舞台にした作品を撮る時、スマートフォンというツールを必要悪的な存在として消極的に描いている、あるいは極端なケースではほとんど存在しないものとして描いているなか、とてもシャープかつ正確な切り口だと思いました。
アスター「そこに気づいてもらえたのはうれしいですね」

