『天使のたまご』は許してもらえない?押井守が追求する“境界線”と、意図的にジャンルを越えるC・ノーラン監督作【押井守連載「裏切り映画の愉しみ方」第1回後編】
「ただただ映画を作ることを楽しみたい。それが私の監督としての幸福論」
――ノーランの次回作は『オデュッセイア』(2026年公開)なので、リーンに迫るかもしれませんよ。
「実のところ、私がノーランでもっとも興味があるのはそこなんですよ。なぜこのおじさんはそうやって映画を撮り続けることができるのか?」
――それは押井さん、赤字になった映画が1本もないからなのでは?
「そうなんだけど!それでも大体が超大作だよ。デヴィッド・リーンの場合はおおよそ4年に1本くらいだったし、そういうサイクルになったのは『アラビアのロレンス』(62)あたりからでしょ?ノーランは『バットマン ビギンズ』(05)以来大作ばかりじゃないの。私がほかの監督の作品を観る時、一番気にしているのはそこなんです。(ジャン=リュック・)ゴダールなんて黒字になった映画は『勝手にしやがれ』(60)だけだからね。一度、アメリカ資本でブリジット・バルドー主演の『軽蔑』(63)という映画を撮ったけど、ものの見事に自分の映画にしちゃってハリウッドのプロデューサーが激怒して終わり。以来、ハリウッドからお声はかからなかったと思うよ。でも、ゴダールは、ビデオ撮影であろうが映画を撮れればいいという姿勢だったせいもあって、ずっとコンスタントに撮っている。撮った作品は全部大火事状態だったのに、死ぬまで映画を撮り続けられた。監督にはいろんなタイプがいるからおもしろいということですよ」
――押井さんの場合も、ヒットとは無縁なのに撮り続けられてるじゃないですか!
「それは私が謎を解いたからですよ。つまり、私はこの年になって映画との向き合い方を変えたんです。野望も野心もなく、ただただ映画を作ることを楽しみたいだけ。そのためには次々と仕事を決める必要があるので、ちゃんと枠(ジャンル)の要求を意識して作る。自分の主張を通すことがマストではないことをしっかり理解したんです。ゴダールのようにコンスタントに撮る。それがいまの私の監督としての幸福論ですよ。『ビューティフル・ドリーマー』は許せて『天たま』は許してもらえない、その微妙な境界線を理解できたということです。3000万円くらいの映画を撮っている時が責任も少ないし、ある程度、自分の趣味を入れられるのでいいよね。とはいえ、景気のせいなのか、はたまた違う理由なのか、そういうオファーをしてくれるプロデューサーも少なくなっちゃったけどさ(笑)」
「ノーランは意図的にジャンルを越えようとしている映画監督」
――ということは押井さん、ノーランはまだ若いにもかかわらず、自分の幸福論を追求できているということですか?
「そうなるのかな。もちろん、いつまで追求できるかは未知数だけど。やはり、彼の場合は、裏切り方が上手いんです。意図的にジャンルの身幅を越えさせているところがあって、そこも敢えて言うなら裏切りになる。何度も言うけど、私は“裏切り”という言葉を否定的には使っていないんです。そういう目に遭ったほうが、映画の体験としてはリッチだと思っているから。Aだろうと思って観に行ったら、やっぱりAだったじゃ私はおもしろくない。CであったりMであったり、Yであったりしてほしいんです。Aを期待したらちゃんとAだったというのを求めるならテレビや配信を楽しめばいい。そういうメディアでは基本、Aだと思っていたらA+だったというはあるけど、Cには絶対にならないから。それが配信のドラマなんですよ。
裏切りでいうと、アート系映画では少ないかもしれない。たとえばアキ・カウリスマキは初めて観たら“裏切り”だったということになるけど、そのあとはまったく裏切らないでしょ。裏切りより中毒性の強いのがカウリスマキの映画。だから何度も観てしまうんです」
――「意図的にジャンルを超える」のはノーランの特徴かもしれませんね。『インセプション』は当人がいうには、どう見てもSFなのに「SFのつもりではない」と言っていましたから。ちなみに押井さん、『インセプション』のインタビューの時、ノーランに好きなSF映画をあげてもらったんですが、ちょっと意外な選択でした。
「なにを挙げていた?」
――ポール・ヴァーホーベンの『トータル・リコール』(90)、ジョセフ・ラスナックの『13F』(99)、アレックス・プロヤスの『ダーク・シティ』(98)、デヴィッド・クローネンバーグの『イグジステンズ』(99)。あとは(スタンリー・)キューブリックの『2001年宇宙の旅』(68)、そしてサーの『ブレードランナー』(82)です。
「確かにちょっと変化球だけど、それを選んだ理由はわかるような気もする。なぜなら、意図的にジャンルを越えようとしている監督だからですよ。私が、新作が公開されると絶対に観たい監督といえばサーはもちろん、ドゥニ・ヴィルヌーヴとデヴィッド・フィンチャー、そしてノーランだから。彼らは劇場でこそ観たいスケール感を演出できるというのがひとつの理由だけど、裏切りに期待しているところがあるからです。とりわけノーランはね!」
取材・文/渡辺麻紀