大ヒット中『#真相をお話しします』でメイン層の観客をつかんだ豊島圭介監督。その知られざるキャリアと覚悟【宇野維正の「映画のことは監督に訊け」】
2020年8月、当時ティーンムービーの旗手として作品を量産していた三木孝浩監督のインタビューから始まった本連載「映画のことは監督に訊け」も気がつけば26回目。大体2か月に1回のペースで更新してきたことになるが、最近はアレックス・ガーランド、アルフォンソ・キュアロン、ジェームズ・マンゴールドと、ずっと話をしてみたかった海外の監督が来日した際に取材をする場として利用させてもらう機会も増えてきた。それはそれで毎回とても実りのある会話となったわけだが、今回は連載の初心に返って、今年のゴールデンウィークを代表するティーンムービー、『#真相をお話しします』の豊島圭介監督に話を訊いた。
自分が“ティーンムービー”という用語を使用する際は、10代だけでなく20代、作品によっては30代前半くらいまでをメインの客層として想定したメジャー配給の実写日本映画のことをイメージしているわけだが、そのかなり広い括りにおいても、ここ数年で変化が起こっている。相変わらず女性の観客を中心とする恋愛映画は当たればデカいが(今年だと新城毅彦監督の『366日』)、その製作本数やスマッシュヒットの数は減少傾向にあり、メインストリームはコメディ作品やホラー作品に移行。とりわけ自分が注目しているのは、長いことホラー作品の製作にあまり積極的ではなかった東宝や、日本でのローカルプロダクションでヒット作をコンスタントに送り出しているワーナーが、本格的にそのジャンルに参入するようになっていることだ。
『#真相をお話しします』はジャンルとしてはミステリーに分類されるのだろうが、作中で展開されているいくつかのエピソード、そして作品全体のトーンに、往年のJホラーからの影響も見受けられる。そして、そのことは00年代に『怪談新耳袋』シリーズをはじめとする数多くのホラー作品をテレビ界と映画界を横断して手掛けてきた豊島圭介が監督していることとも、深く関わっている。実は、自分は豊島圭介監督と旧知の間柄なのだが、その時代の彼に取材をする機会を得ることはなかった。まずは、その空白の時間を埋めるところから会話はスタートした。
「映像の業界でお金を稼ぐのがこんなに大変だって知ってたら、もうちょっと人生設計を考えていたかも(笑)」(豊島)
豊島「(連載の前回、ジェームズ・マンゴールド回の画面を見ながら)ジェームズ・マンゴールド、すごく尊敬してるんですよね」
――現役の映画監督の中で、同業者の映画監督から圧倒的に支持されてますね。自分の知る限りですが。
豊島「『Heavy』ってあったじゃないですか、邦題が変なタイトルで」
――日本ではDVDスルーになった『君に逢いたくて』ですね。
豊島「そうそう。田舎町の小さなダイナーが舞台の、すごく作家っぽい作品だったんだけど、その次作でいきなり(シルヴェスター・)スタローンの刑事もの(『コップランド』)を撮って、どんどん商業作家になっていって。いままた、すごく尊敬されてるっていう。ある種、ロールモデルじゃないですけど、やっぱり憧れますよね」
――一応、旧知の間柄であることを表に出した上でインタビューしたいと思ってるんですけど。
豊島「はい(笑)」
――とはいえ、学生以来なので、マジで30年ぶりくらいですよね。
豊島「学生の頃、映画の撮影を手伝ってもらったりしてましたよね。僕ね、あの時に手伝ってくれた宇野さんと、たまに名前を見かけるあの宇野維正さんが同一人物だと思ってなかったんですよ(笑)」
――僕は、それこそ深夜のテレビでたまたま「ケータイ刑事」とか「マジすか学園」とかを見てて、「あれ? 豊島圭介って、あの豊島君!?」みたいな感じだった(笑)。
豊島「そうなんですか(笑)」
――多分、最後に会ったのは阿佐ヶ谷でやった上映会の時で。そこで、仲間内3人の短編が上映して、1人は『人数の町』や『ペナルティループ』の荒木伸二で、もう1人は2017年に亡くなってしまった堀禎一で、結局、豊島君だけPFF(ぴあフィルムフェスティバル)を受賞するという。
豊島「あはは、そうそう。そうでした」
――でも、結局3人とも――荒木がダントツで一番遅かったですけど――ちゃんとプロの映画監督になって。そう考えると、すごい話ですよね。中でも、豊島君は一番ここまでコンスタントに仕事をしてきてて」
豊島「堀さん、亡くなってしまいましたからね…」
――豊島君と堀君は初志貫徹って感じでしたよね。
豊島「でも、荒木さんの根性にはびっくりしましたけどね。そのまま会社員としてやっていくのかと思ったら、ある時期から、シナリオを書きまくるようになったじゃないですか」
――そうなんですよね。
豊島「僕、伊参スタジオ映画祭っていう小さい映画祭のシナリオコンテストの審査員をやってたことがあって、そこに荒木さんのシナリオが送られてきたんですよ。それがめっちゃおもしろくて。でも、審査委員長の篠原哲雄を口説けずに。まあ、でもああいうところで獲らなくてよかったなって。 まだプロデビュー前でしたから」
――でも、逆に獲ったら獲ったで、ちょっとコネ受賞を疑われかねない(笑)。
豊島「でも本当におもしろかったから。荒木さんの新しい短編(短編映画集『Moirai』の『その誘惑』)、ご覧になりました?」
――観てますよ、もちろん。
豊島「あれもおもしろかったかったですね。完成度もめちゃくちゃ高くて。緻密さが美しさになっているような映画でした。芝居の付け方も気が利いていて。でも、まだ会社に所属してるんですか?」
――全然います。きっと辞めないですね。
豊島「どうやったらそんなことができるんですか?(笑)」
――社内での立場を固めてから監督になったからっていうのもあるんじゃないですか?まあ、よくわからないけど(笑)。
豊島「映画の撮影期間、長期で職場を開けられるっていうのは、ちょっと考えられないな」
――豊島君は、一回も会社員になっていないんですか?
豊島「いわゆる制作会社に所属してお給料をもらったことはあって、それは会社員といえば会社員ですけど、ずっとフリーみたいな感じではありますね。2001年に『張り込み』っていう篠原哲雄さんのビデオ映画を脚色して、製作費700万くらいの超低予算作品だったんですけど。その後に廣木隆一さんの企画やらないかって言われて、その予算が1億円だったんですよ。それで『よし、この台本を書いたらしばらく暮らせるな』って思って」
――うん。
豊島「それで、いい台本を書くにはいい椅子に座らなきゃいけないと思って、お金もないのにアーロンチェアとか買って(笑)、結構一生懸命書いたら、その企画が頓挫したんですよ。いまになって考えたら、映画業界ではそういうのは結構当たり前なんですけど、当時はそれでかなり途方に暮れて。その頃、年収が50万円とかだったので、親に借金とかして」
――そういう話を訊くと、もはや親のほうの気持ちになっちゃうんですけど(笑)、親御さんとしては「東大まで出て、年収50万か」と。30歳くらいの時ですよね?
豊島「そうですね」
――「お前はなにをやってるんだ」という話ですよね(笑)。
豊島「父はそういう感じだったかもしれないですね。うちは両親が離婚していて、僕は母方で育ったんですけど、母は『あなたはものを作る人になりなさい』みたいなタイプの人だったから。でも、まあ、悲しんでたかもしれないですね」
――普通に、親としては心配ですよね。
豊島「で、その年収50万のころに友達になったのが清水崇だったんですよ」
――あ、自分もお世話になってます。日本ホラー映画大賞をずっと一緒にやらせていただいていて。
豊島「そうですよね!で、清水が”芸能人が体験した怖い話”みたいなOVA(オリジナルビデオ)を編集している時に友達になって。『俺、年収50万なんだよ』って言ったら、『うちにおいでよ』って言ってくれて、当時彼が所属していたシャイカーっていう映像制作会社の社員になったんです」
――なるほど。
豊島「それで月々給料をもらえるようになって、ようやく暮らせるようになりました。その当時は目の前のことで精いっぱいで、あんまり親の気持ちとかを考える余裕がなかったな。でも、そうですよね、“自分の子どもが”って逆の立場で考えると心配ですよね。映像の業界でお金を稼ぐのがこんなに大変だって知ってたら、もうちょっと人生設計を考えていたかもしれないです(笑)」
――でも、既に僕らの世代にとっては、”映画の世界になんて行ったら食えないだろう”っていうのは、当たり前の常識としてありませんでした?それこそ大昔、まだスタジオシステムが機能していた篠田正浩とか大島渚とかの時代なら違ってたんでしょうけど。
豊島「いやあ、当時はそういうことに鈍感だったので、全然考えてなかったですね。なんか、いけるんじゃないかと(笑)。それこそPFFに受かった時点で『自分は才能あるんだ』と思って。 それこそ当時は、古厩(智之)さんとか、矢口史靖さんとか、中村義洋さんとか、PFF出身の若い人たちが活躍してたから。僕の場合、一番目標にしたのは、PFFの同期でグランプリを獲った佐藤信介さんだったんですよ」