『東海道四谷怪談』『地獄』中川信夫監督の神髄は…生誕120年で振り返る“怪談映画の巨匠”の生涯

『東海道四谷怪談』『地獄』中川信夫監督の神髄は…生誕120年で振り返る“怪談映画の巨匠”の生涯

『東海道四谷怪談』(59)や『地獄』(60)など、後世に語り継がれる傑作を世に送りだし、“怪談映画の巨匠”とも称される中川信夫監督。PRESS HORRORでは今年生誕120年を迎えた中川監督に注目。本稿ではキャリアと生涯をたどりながら、怪談映画作家としての神髄を探っていこう。

【写真を見る】後世に多大な影響を与えた“怪談映画の巨匠”の美学とは(画像は『地獄』より)
【写真を見る】後世に多大な影響を与えた“怪談映画の巨匠”の美学とは(画像は『地獄』より)

文学青年から映画界入り!さまざまな会社を渡り歩いたキャリア

助監督時代の唯一の現存作『懷古二十五年 草に祈る』
助監督時代の唯一の現存作『懷古二十五年 草に祈る』

1905年に京都・嵐山の近くで生まれ、大阪を経て神戸で育った中川監督は、料理人である父親の跡を継がずに育英商業高校に入学すると、文学青年として開眼。友人たちとガリ版の同人雑誌などを制作し、後に映画の道を志すように。1987年に刊行された「映画監督 中川信夫」に収録された「自分史 わが心の自叙伝」には「文学をやるには大学を出ていないとダメだと単純に考えてました」という言葉と共に、当時観たマキノ正博監督、山上伊太郎脚本の『浪人街』(1928)や伊藤大輔監督の『忠次旅日記 御用篇』(1927)を観る観客の様子が胸に響いたことがきっかけの一つとして綴られている。

夏目漱石原作による、戦前最後の監督作となった『虞美人草』
夏目漱石原作による、戦前最後の監督作となった『虞美人草』

京都へ向かい、日活大将軍撮影所の村田実監督の助監督を志望するがなかなか返事が来ず、代わりにマキノプロダクションに入社。脚本家や助監督として数作品に携わった後、マキノプロダクションは賃金未払いによる労働争議に入り解散。マキノで一緒に働いていた稲葉蛟児監督に誘われて市川右太衛門プロダクション(右太プロ)に入社し、『東海の顔役』(35)で本格的に監督デビュー。

戦後に監督復帰を果たした、新東宝での第1作『馬車物語』
戦後に監督復帰を果たした、新東宝での第1作『馬車物語』

しかし1936年に右太プロが松竹に吸収されたことで、マキノトーキー、J.O.スタヂオ(後の東宝京都)と転々とし、1939年に東京へ進出。『エノケンの森の石松』(39)を皮切りに、“喜劇王”エンケンこと榎本健一の主演作や、大河内傳次郎主演の『新篇 丹下左膳 隻眼の巻』(39)などを監督。撮影前に夏目漱石の墓前に詣り、撮影中の禁酒を誓って手掛けた『虞美人草』(41)の後に戦況の悪化に伴い、上海へと渡る。


13年ぶりに劇映画を手掛け、遺作となった『怪異談 生きている小平次』
13年ぶりに劇映画を手掛け、遺作となった『怪異談 生きている小平次』

引き揚げ後は大同映画に入社するも観光映画を一本手掛けるのみで仕事にありつけず、1947年に新東宝に移籍。『馬車物語』(48)を第1作に、42歳から56歳までの15年間で50作品近くの作品を生みだす。新東宝の倒産後は東映を主な拠点として映画を撮り続け、またテレビ界にも進出。ATGで手掛けた13年ぶりの監督作『怪異談 生きてゐる小平次』(82)を遺作に、1984年6月17日に79歳でこの世を去った。

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