作品を売るのはディカプリオ、シャラメらスターか、映画祭の権威か?映画祭の“存在意義”が問われる、第98回アカデミー賞の行方
第98回アカデミー賞で問われる、映画祭の存在意義
ここで一歩引いて考えると、映画祭ルートと映画祭回避ルートの分岐には、より根本的な問いが潜んでいるように思える。それは「誰が映画を売るのか」という問いだ。
NEONが手掛ける作品群に共通するのは、ポン・ジュノ、ショーン・ベイカー、ジャファル・パナヒ、ヨアキム・トリアーといった監督名がそのままブランドになっている点だ。ヨーロッパの映画祭に根強く残る権威体質は、作家性を国際的に可視化するための装置として機能している。批評家やアカデミー会員に「あの監督の新作」として認知させるうえで、カンヌという舞台は依然として最も効率的な場のひとつと言える。
一方、映画祭を回避した作品に目を向けると、ティモシー・シャラメ、マイケル・B・ジョーダン、レオナルド・ディカプリオ、ベニチオ・デル・トロといったスターが、キャンペーンそのものを牽引できる顔ぶれであることに気づく。キャストのSNS発信力やメディア露出が、映画祭のお墨付きに代わる集客エンジンになり得る。
つまり、監督が映画を売るなら映画祭、スターが映画を売るなら独自キャンペーン——そう整理できる部分もあると言えるかもしれない。もちろん例外もある。三大映画祭の全てで監督賞の受賞歴があるアンダーソン監督の『ワン・バトル・アフター・アナザー』は、ディカプリオというスター性と監督の作家性が高いレベルで両立しているが、それでも映画祭を回避した。強いキャストがいれば、あえて「炎上リスク」を冒す必要がないという判断が働いた可能性もあり、その選択自体が今シーズンの戦略的な読み筋を象徴しているようにも見える。
映画祭を通じた権威付けか、SNS主導のバイラル戦略か。今年の第98回アカデミー賞授賞式は、その答えを問う分水嶺になるかもしれない。
大手スタジオにとって「映画祭なしでもオスカーを獲れる」という前例が確立されれば、今後の戦略は加速度的に変わっていく可能性がある。同時に、国際長編映画賞部門では依然として映画祭実績が事実上の条件であり、NEONが証明し続けているように、映画祭ルートが完全に時代遅れになるわけでもない。
むしろ二極化が進みつつあると見ることもできる。資金力のあるスタジオはリスクを避けて独自キャンペーンに舵を切り、独立系・国際映画はより映画祭への依存を深めていくだろう。記事にある「映画祭なしでは、これらの映画は消えてしまう」というフランスの販売エージェントの言葉は、その現実を端的に表している。
そして忘れてはならないのが、映画祭が直面する「政治的圧力」の問題だ。第76回ベルリン映画祭では、開会記者会見で政治的ステートメントを発しなかったヴィム・ヴェンダース審査委員長への批判が白熱した。本件に対するベルリン映画祭の対応に、世界中の映画人が反応している。ここにも「炎上リスク」が潜み、映画祭が審査員・出品ともに優れた映画人を惹きつけ続けられるか、改めて存在意義が問われている。
文/平井伊都子
