「来た仕事は断らない」押井守も共感する“職業監督”としての黒沢清と、その作家性【押井守連載「裏切り映画の愉しみ方」第7回後編】
独自の世界観と作家性で世界中のファンを魅了し続ける映画監督・押井守が、Aだと思っていたら実はBやMやZだったという“映画の裏切り”を紐解いていく連載「裏切り映画の愉しみ方」。第7回前編は、『散歩する侵略者』(17)をはじめとした黒沢清監督作品での、“日常を侵食していく”恐怖の本質を解説した押井監督。後編では、恐怖の本質を描くことで生まれる“最大の裏切り”を語っていく。
「ケレンに満ちたホラーを演出すればするほど本質的な恐怖からは遠ざかる」
――今回は、黒沢清監督のSFホラー『散歩する侵略者』の後編です。ホラー映画の定番的演出である脅し等のケレンを一切使わず、日常に潜む恐怖を表現しているところが、すごいし裏切りであると、押井さんはおっしゃっています。でも、それ以上の裏切りが黒沢作品にはあるらしいんですが、その前に!数ある黒沢ホラーのなかから『散歩する侵略者』を選んだ理由を教えてください。
「黒沢さんの本質がわかりやすいからだよ。なぜならある程度、余裕をもってつくっているから。普段の自分のスタイルとちょっとだけ距離をとっているんです。おもしろおかしいところがあるでしょ?そういうのは距離が生まれて観やすくなるの。『CURE』(97)なんてとことんマジだから。世界が破滅するまで地続き。飛躍がなく、その地続きが怖いんです。『回路』(00)もそう。突然、塔のてっぺんからドサっと人が落ちてくる。主人公はそれを目撃するんだけどなにが起きたかわからない。だから悲鳴も上げられない。まさに人間が物理的に落っこちたという図。そういうのを積み重ねて行って徐々に日常が崩壊して行くさまを表現する。言い方を変えれば、日常が本質を露わにして行くんです。現実はこんなにとんでもないんだって」
――『回路』も公開時に観ましたが、やっぱり怖くなかった(笑)。屋上から人間が落ちて来るというのなら、(M・ナイト・)シャマランの『ハプニング』(08)のほうが怖かったのは私だけですか?
「シャマランはケレンの監督です。あのシーンは恐いけれど、そこで終わっちゃうじゃないの。彼の恐怖演出は、いわばお団子のように一つ一つが切れている。恐怖というお団子が来たあとに日常があって、非日常と日常が交互に表現される。でも、黒沢さんの恐怖はずーっとつながっている。お餅みたいに恐怖がびょーんと伸びていてその区別がないんです。
これはホラー映画としてはありえない。ホラー映画は恐いシーンで飛び上がり、そのあとちょっとほっとしてると、また恐怖が襲って来る。そういうドッキリがあるからエンタテインメントであり、お金を払う価値があると思っている人は多い。飛び上がる回数が多ければ多いほどお金を払う甲斐があるということですよ。でも、黒沢さんのホラーはどこで飛び上がればいいかわからないというより、そもそも飛び上がるシーンがない。にもかかわらず『CURE』や『回路』を観たあとだと、自分の日常に復帰するのに時間がかかったり、ドアの向こうが怖くなるんです。なにを言いたいかというと、意図的に恐怖を演出すると、その本質から遠ざかることになる。ケレンに満ちたホラーを演出すればするほど本質的な恐怖からは遠ざかるんですよ――だから、エンタメになるんです」
――ということは押井さん、黒沢ホラーはエンタメじゃないってことですか?もしかしてそれが最大の“裏切り”?
「彼のホラーはエンタテインメントである以前に、ある種のアートに近い。エンタメであるホラーを観に行ったつもりだったけれど、蓋を開けたらアート映画だった。これが最大の“裏切り”です。
エンタメというのは日常の息抜きとして機能するわけで、映画館でヘンタイやら犯罪者を観たとしても、そこを出るとそんな連中のいないいつもの日常に戻ることができる。とはいえ、帰りの電車で包丁を振り回すような男に出会う可能性はないわけではない。そう考えると日常は恐いものになるんです。それが黒沢ホラー。“安全”が錯覚であり、恐怖は地続きなんだということを教えるからです。映画を観た帰り、電車の隣のおっさんが怖くなったという感覚はまさに日常と非日常の境界線を越えているんだよ。そういう感覚を生むのはエンタメじゃなくてアートなんです。払ったお金に見合うものを提供するというのがエンタメの責任の取り方。でも、アートは誰に対しても責任を取らない。敢えていえば人間に対して、歴史に対して取っているだけ。黒沢さんが成し遂げたこと、いまもやっていることはそういうこと。映画はそういうかたちでも成立するんだということを証明した。彼はホラー映画の枠組みのなかでそれを実現してしまったんです。これこそが“最大の裏切り”なんです。
言うまでもなく、いい意味での“裏切り”だよ。何度も言うけど、映画は裏切りがなければ凡庸ということになるから。なにより凡庸は罪です、悪です。破綻していてもいい。珍作であろうが駄作であろうが、破綻しまくってるほうが凡作よりも価値がある。だって日常じゃないものを観たいわけなんだから!」

