押井守が分析する、黒沢清監督作における“恐怖の本質”「得体のしれない深淵がのぞいている」【押井守連載「裏切り映画の愉しみ方」第7回『散歩する侵略者』前編】
「映画監督というのは現実も映画のように見ている人間」
――ちょっと観直したくなりました。
「カメラから人間が出たり入ったりするのは黒沢さんの発明だと思う。ほかの監督の作品では見たことがないから。たとえあったとしても、そこには明らかに違う意図を感じる場合が多く、人間の視線を意識したものではないと思うね。
カメラワークは監督の本質がもっともよく出るパートでもあるんだよ。フィックスでしか撮らない小津安二郎のような監督もいるでしょ。しかもローアングルで、カメラを切り返すと、喋っていたはずの2人がとても離れているのがわかる。普通の映画は、お客さんがもっとも見やすいアングルで撮っていて、ごくごく自然に物語に誘導してくれる。それは監督、ないしはカメラマンの仕事なんです」
――小津安二郎はなぜそんな撮り方をしたんですか?
「そうしたかったからです。彼は自然主義でもなければリアリズムでもない。映画監督なんです。映画監督というのは現実も映画のように見ている人間のことを言うんです。『現実を再現するのは映画の使命ではない。自分が見ている現実を再現するのが映画』。だから小津は、自分にとって必要な絵を撮っているだけ。彼にとって人間とはああやってローアングルから煽って撮るものなんです。小津が役者に延々とリハーサルさせるのは有名な話でしょ?役者が疲れてどうでもよくなるのを待っているんです。その絵が欲しいから。そういう意味では全部、様式なんですよ、小津の場合は。
話が飛んじゃったけど、黒沢さんの恐怖は突然、日常のなかに現れるものであり、なおかつ日常そのもの。なぜかというと、一番恐ろしいのは人間であり、人間の存在そのものが恐怖の根源だということ。人間は不気味なものであるという(デイヴィッド・)リンチに一脈通じるところある。リンチがやっていたのは、人間ほど不気味な存在はないということだったでしょ」
――ということは押井さん、人間を不気味がって撮る監督と、人間をおもしろがって撮る監督がいるということですね?
「そうです。ちなみに私はおもしろがるほう。不謹慎な人間なので」
――押井さん、今回の裏切りはやはり、黒沢監督の恐怖は、私たちの考えているそれとは違うという点ですか?
「そう、恐怖を描く時に、ルーティンとしての恐怖映画の要素をことごとく外したところです。簡単に言っちゃえば『びっくりさせる演出を止めた』。ホラー映画のつもりで黒沢さんの映画を観に行くと、最初は戸惑っちゃうんだよね。『なにこれ?いつになったら怖くなるの」。あるいは、『怖くなったものの、よくわからないまま終わってしまった』って、麻紀さんと同じようなものですよ。ホラーと言えば清水さんの映画のような脅かされる演出を連想しているから、そんな感想になる。でも、黒沢さんのホラーは、気づかないうちに鳥肌が立っていた。気が付いたらとんでもない日常に入っていたという映画で、みんなが期待しているホラーとは違う。だから、黒沢さんの映画にはもう一つ、ホラーを観に行ったはずなのに違う映画を観せられたという裏切りもある」
――それはよくわかります。
「そして、実はもう一つあるんです。最大の裏切りが」
――ということは3つもあるんですね?「最大の裏切り」については後編でお願いします!
取材・文/渡辺麻紀

